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2022.03.11
農家兼文筆家・鎌田裕樹が循環させる本とアートと自然 / 連載「わたしが手にしたはじめてのアート」Vol.1
Edit / Moe Ishizawa
自分らしい生き方を見いだし日々を楽しむ人は、どのようにアートと出会い、暮らしに取り入れているのでしょうか? 連載シリーズ「わたしが手にしたはじめてのアート」では、自分らしいライフスタイルを持つ方に、はじめて手に入れたアート作品やお気に入りのアートをご紹介いただきます。
今回お話を伺うのは、京都の書店「恵文社一乗寺店」に勤めたのち、現在は農家見習い・文筆家として働いている鎌田裕樹さん。今も農業をするかたわら、日常的に本とアートに親しんでいるという鎌田さんは、アートと触れ合うことでどのような価値観を育んできたのでしょうか?
背伸びをするうちに、アートが好きになった
――「恵文社一乗寺店」という、京都でも個性派として名高い書店に勤めていた鎌田さん。当時からアートに親しんでいたのでしょうか?
最初はアートが好きというより、背伸びしたいという気持ちのほうが強かったですね。僕は24歳で恵文社一乗寺店の書店部門のマネージャーになったのですが、店のある京都の左京区には、アートやカルチャーに精通した人が多くいます。そういった方々と対等に話したかったですし、「書店の顔として、どんな本やアートであってもまったく知らないことは許されない」というプレッシャーもあって、アートだけでなく、映画、音楽などさまざまなカルチャーに触れるようにしていました。たとえば初めてウィスキーを飲んで「おいしい」と思えなくても、無理して背伸びして飲むうちに、本当に好きになってくる。それと同じで、何年か続けていくうちに、本に対してもアートに対しても素直に楽しめるようになったと思います。
鎌田裕樹さん
――どんなときに、アートを素直に楽しめているなと感じましたか?
印象に残っているのは、2014年に大阪・中之島の国立国際美術館で開催された、映像作家であるフィオナ・タンの大規模個展『フィオナ・タン まなざしの詩学』を観たときです。彼女の額に入った作品は一見静止している写真のように見えますが、実はゆっくりと動く映像なんですね。その作品を前に立ち尽くし、誰かの評価とか、自分の境遇に関係なく、自然とその作品に向き合っている自分がいました。そのときに、素直にアートを楽しんでいることに気づきました。
――これまでさまざまなカルチャーに触れて、自分が好きなものを探求してきたからこそ、アートの魅力を感じられたのかもしれませんね。
それはあると思います。背伸びするということは、誰かの価値観に合わせるということでもあるけれど、そうしているうちに、「自分は何が好きなのか」「どんな世界にいたいのか」ということが相対的にわかってくる。僕の場合、千葉県の書店もないような自然いっぱいの田舎で生まれ育ち、その後は文学やカルチャーにどっぷり浸かるようになりましたが、年々子どもの頃から好きだった動物や自然に惹かれるようになっていったんですよ。そのせいか、持っているアートも、動物をモチーフにしたものが多いですね。
アートに触れて思い出す、25歳の記憶
――鎌田さんが初めて購入した作品を教えてください。
画家のタダジュンさんによる『星の王子さま』の銅版画です。購入したのは、25歳頃だったと思います。書店員はアートに近い場所に身を置いているにもかかわらず、業界全体として給料が高くないのでなかなか気軽にアート作品の購入までには至りませんが、それでも買おうと思ったのは、やはり本がきっかけでした。
タダジュン『星の王子さま』(写真提供:鎌田裕樹)
僕は大学生の頃から本屋でアルバイトをしていて、そのときに一番最初に買った海外文学作品が、アメリカの作家、ポール・オースターが書いた『ガラスの街』(2013年、新潮社)という小説の文庫版でした。その頃は若かったので、海外文学の翻訳ってどうなの? という穿った見方をしていましたが、『ガラスの街』は一気に読んでしまうほど面白くて、すっかりハマってしまいました。その後、出ているポール・オースターの作品を全部読んで、彼の作品の翻訳を担当している翻訳者の柴田元幸さん、柴田さんと仲がいい村上春樹さん……と、どんどん観点を増やし、興味の幅を広げていったんです。そのひとつに、タダジュンさんの作品がありました。
最初はタダジュンさんの作品として認識していたわけではなく、「あれ、この本の挿絵も『ガラスの街』の挿絵を描いている人だ」という小さな気づきでした。でも一度気づくと、タダさんが海外文学の挿絵を多く手がける人だとわかってくる。そうやって興味を広げていたのと同じタイミングで、恵文社でもタダジュンさんに小さな展示を開催させてもらうことになったんです。僕にとって、ポール・オースターと、柴田元幸さんと、タダジュンさんのトリオにはすごく思い入れがあったので、その展示でタダさんの作品を絶対に買おうと心に決めていました。
――それは、実際に手に入れたときには喜びもひとしおだったと思います。
本当は『ガラスの街』の挿絵に使われている作品が欲しかったのですが、その展示では販売をされていなかったので、『星の王子さま』を買うことにしました。この作品を見るたびに、展示に自分が関わったこと、タダさんが挿画を書いたバリー・ユアグローの『真夜中のギャングたち』にサインしてもらったことを思い出します。しかも、タダさんは後日『ガラスの街』の版画のプリントを贈ってくださって、とても嬉しかったんです。この作品から若手時代、深夜までコーヒーを飲みながら貪るように本を読んでいたことなど、いろいろな思い出が鮮明に蘇ってきます。
―アートが記憶装置のように機能しているのですね。
アートはすぐ目に触れる場所にあるので、片づけしているときとか、予期しないときに記憶が蘇るんですよね。それは利点でもあると思います。アートって、ある意味実用的ですよね。
アートは祈りの対象。本棚は、それを置く祭壇
――鎌田さんのお気に入りの作品とそれが好きな理由について、教えてください。
僕は特定の宗教に入っているわけではないのですが、祈りや宗教的なものをモチーフにした作品に惹かれやすいようです。アートを所持することで、祈りの瞬間を生み出すことを求めているのかもしれません。特に20代半ばを過ぎてから、アートを切実に欲する瞬間があると感じるようになりました。人生の紆余曲折から立ち直れなくなりそうになったとき、アートは思いを馳せる対象となり、大きな支えになってくれます。だからこそ切実なものを感じることがあったし、今もそうだと思います。
アート作品と言えるかはわかりませんが、友人がやっているセレクトショップで買ったこの『祈る手』は、その最たる例だと思います。これはドイツのヴィンテージのレリーフで、いつ、誰によって作られたか不明なものですが、友人が「入荷しました」とTwitterに情報をあげた瞬間、「これは僕になくてはならないものだ」と思って。普段からレストランで手を挙げることすら憚るほど自己主張が苦手なのに、そのときは即メッセージを送って取り置きしてもらいました(笑)。
『祈る手』(写真提供:鎌田裕樹)
もうひとつは、植田楽くんという京都在住のアーティストの作品です。実はこれ、素材にセロハンテープを使っているのですが、すごく精緻に作られているんですよね。植田くんとは友達の紹介で知り合ったのですが、作品を見て「これ、ホウシャガメですよね」と言ったら、上田くんが「え、動物好きなんですか」と食いついてくれて、そこから仲良くなって交流が始まりました。ホウシャガメはよく本棚の隙間とかに置くのですが、たとえば、ミヒャエル・エンデの『モモ』(1976年、岩波書店)の隣に置くとピッタリなんですよ。「こいつがいると時間を止められる」そう感じたときに、ポンと本の横や上に置いています。基本的に、僕が手に入れたいと思うアートって、本の横に置きたくなるものなんですよね。
植田楽『ホウシャガメのオブジェ』(写真提供:鎌田裕樹)
――アートを本と一緒に置いて、妙味を感じる。なんだか試してみたくなります。
アートも本も、単体で完結させるのではなく、生活の中で何を自分が織りなしていきたいかを意識して組み合わせるとすごく楽しい。それは多分、本屋の頃から培われてきた感覚なのだと思います。単体で見ると、その本が何の文学賞をとっていて、何万冊売れていてとか、誰かが決めた価値観に引っ張られてしまうことが多々あります。でも何冊か並べてみると、その人しかつくり得ない文脈が生まれる。その中にさらにアートが加わることで、より自分らしさが際立つと思うんです。そういう意味では、むしろなんだってアートになり得ると言えますよね。
――そのほかに思い出深い作品はありますか?
最後に紹介したいのは、犬科の動物の頭の骨です。これはあるお寺で、コンポストで堆肥をつくるための落ち葉を集めていたときに拾いました。見つけた瞬間、僕はこの骨に「美しいな」とすごく惹かれてしまって。『数学する身体』(2018年、新潮社)や『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(2021年、集英社)の著者で、寺で一緒に作業していた独立研究者の森田真生さんに「持って帰ります」と言ったら、驚かれたというか、引かれました(笑)。
犬科の動物の頭蓋骨(写真提供:鎌田裕樹)
改めて僕はなぜこの骨に美しさを感じたのかなと考えると、ジョージア・オキーフが思い当たりました。『ジョージア・オキーフとふたつの家 ゴーストランチとアビキュー』(2015年、KADOKAWA)という本があるのですが、そこでオキーフが鹿の骨とかを飾り、その下に石などを点々と置いているという写真がいくつかあって。それと同じように、死を身近に感じながら、本棚を祭壇のように飾りたいんですよね。その感覚は、今農業をやっているからこそ、ますますしっくりくるんです。
本と農業とアート。すべてがつながり、循環していく
――2021年9月に恵文社を退社したあとは、どのような暮らしをされているのでしょうか?
地元の千葉で有機農業を営むために、研修生として京都の山間部にある有機農家に、住み込みで働いています。農家として自立するためには、2年間ほど働いてから独立するという流れが主流なので、まだまだこれからというところです。
農家での様子
――なぜ農家への転身を決めたのですか?
宮沢賢治は『農民芸術概論』という壮大な芸術論を書いているのですが、そこで、本当にざっくり言うと、みんなでつくりあげる畑というものが、一体となって芸術になり得るんじゃないかという主張を唱えていました。農業はビジネスや労働だけではなく、宗教であり、芸術でもあり、科学などの学問であり、詩でもある。それが一体となって農業はある。そんな賢治の考えに共感し、自分も実践したいと20代の後半からたまらなく願うようになったんです。農家になって半年になりますが、本屋の現場もすごく楽しかったけれど、肉体を使い汗を流せた方が、やはり納得感があるなと思います。
――現在は並行して文筆業もされていますが、相乗効果のようなものは感じますか?
10年以上本屋で働いて、今は農業というまったく別の仕事に就いていますが、本屋で働いていたことで得た知識が、執筆をする際に非常に役立っています。また、思考をつなげる役割としてアートも欠かせません。アートがあることで、フラッシュバックしながらすべてが繋がっていく感覚を得られ、それが執筆にも繋がっています。
――読書と生き方、働き方が、うまく循環しているのでしょうね。
自分でもすごく健全だなと思います。角幡唯介さんの『狩りの思考法』(2021年、清水弘文堂書房)という本に、イヌイットの死生観が書かれているのですが、いつ死ぬかわからない残酷な現実に対してイヌイットの人が考え出した思想に「ナルホイヤ(わからない)」があります。イヌイットの人たちは、「明日の天気は?」と聞かれたら「ナルホイヤ」。「今何しているの?」と聞かれても「ナルホイヤ」と、なんにでも「ナルホイヤ」と答えるらしいんです。
そんなのあり得ないでしょと思う方もいると思いますが、有機農業をしていると、長雨でトマトがみんな割れてダメになってしまったり、手塩にかけて育てた野菜が虫に食われるなんてしょっちゅうですから、とても共感できます。そこで、虫がつかないように農薬でコントロールしようとすることは、やはりヨーロッパ哲学的な考え方なんだと言える。そう思えるのはいろいろな本を読んできたからです。農の現場の事象ひとつとっても、読書をしていることで奥行きを持って捉えることができていると思います。
――最後に、今後の目標を教えてください。
今は実地で学んでいる最中ですが、ゆくゆくは独立して循環型の農業を、農園をつくっていきたいと考えています。これからは、そういう暮らしや読書の楽しみを伝えながら、その活動自体がアートとして認められるような人間になりたいですね。
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