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2022.09.02

街にアートをいきなり置いたら今や先進的な街になった藤野町の話 / 連載「街中アート探訪記」Vol.10

Text / Shigeto Ohkita
Critic / Yutaka Tsukada

私たちの街にはアートがあふれている。駅の待ち合わせスポットとして、市役所の入り口に、パブリックアートと呼ばれる無料で誰もが見られる芸術作品が置かれている。
こうした作品を待ち合わせスポットにすることはあっても鑑賞したおぼえがない。美術館にある作品となんら違いはないはずなのに。一度正面から鑑賞して言葉にして味わってみたい。

今回は戦中に芸術家が疎開したことから、バブル期にアートで町おこしをすることとなった藤野町にやってきた。前回は藤野のパブリックアートを見たが、今回はパブリックアートを置くことになった街のその後である。アートを見る連載なのにいよいよ一作品も出てこない。だが街にアートを置くとはどういうことなのか。祭りの後に生まれるものを見ていく。

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前回も藤野の街を巡りました!こちらからご覧ください。

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芸術家が疎開したアートの街、藤野をめぐる / 連載「街中アート探訪記」Vol.9

  • #大北栄人・塚田優 #連載

若手美術評論家の塚田優(左)くだらない舞台明日のアーを主宰する大北栄人(右)がお送りします。

 

かつての芸術の街の今を見る

塚田:さあ山登って作品見たので、ふじのアートヴィレッジと藤野芸術の家に行きましょう。アートヴィレッジは藤野の芸術家たちが店を出してるらしいです。
大北:芸術家が店を…山のラブレター作品作った人とかいるんですよね……緊張してきたな。しかしこの連載も街の作品でなく、作品を売る店を見に行き始めましたね。
塚田:でもパブリックアートを置いた後に、その街でアートがどのように根付いていくのかを知ることも大事なことだと思いますよ。
大北:置いた後どうなるかはどの街にもすくなからず当てはまるか~。

大北:空いてるタクシーがないそうです。困ったな。バスで行きますか。
塚田:そういえば藤野って地域通貨があるんですよね。実際のお札ではなくノートに書くだけのやつで、通貨の単位は「よろづ」っていうらしいんですけど、ベビーシッターをやったら3000よろづとか残高が増えて、たまったよろづを何か別のことに使える。こういうときに車出してもらったりできるかもしれないから案外便利なのかもしれませんね。
大北:人助けで稼ぐタイプのお金だ。地域コミュニティがしっかりしてるってことなのかな。

塚田:バスに乗ってたお客さん、みんな藤野芸術の家に行きますね。
大北:芸術の家とアートヴィレッジとは全然別物なんですね。
塚田:そうです。性格も違うんです。 芸術の家はバブル期の最後のハコモノみたいな感じです。当時は県の予算が降りていたので彫刻を置いたりしてたんですが、芸術の家の建設のめどが立った時点で満足しちゃったのか…計画を打ち止めにしちゃったんです。それが90年代前半。そこからは県ではなく町が文化関連の施策を担当するようになり大きなお金も使えなくなるわけです。そこから住民たちのDIY精神でアートのコミュニティが形成されていくんです。その結果生まれたのが、アートヴィレッジという、近隣の作家がお店を開ける場所ですね。
大北:じゃ時代を追ってバブル期にできた方から見ていきましょうか。

 

バブル期に県が作った箱物、今にぎわう

大北:バブル期の箱物は負の遺産かと思いきや、駐車場が満車ですね。…に、にぎわっとる!
塚田:宿泊施設もある。あ、ほら、電動ろくろ体験。県主導で開発をしてた時の特徴として、リゾート計画があったんですって。こういった体験もできたりするし釣りもできるし、綺麗な花もあるよみたいな。そのうちの一つとして宿泊施設を作ったんでしょうか。

大北:中に入るとバンドの練習スタジオがありますね。美術に限らず音楽もってことですか。
塚田:県が事業を直接担当しなくなってからは、芸術の範囲が広くなっていく。単純に彫刻やコンサートをするだけじゃなくて、シュタイナー学園を誘致して独特な教育をやったり、楽器とかも含めて、芸術に関連するいろんなものを受け入れていくようになっていく。
大北:芸術がガバガバになってきた。
塚田:(笑)。でも芸術っていうのはそれくらい懐が深いですからね。大きな予算が降りなくなった後でもそういうふうにいろんな形で関心が継続していったことは藤野の歴史の上では非常に重要なことだと思います。さっき話した地域通貨もそうですし、ただ作品を置く、アーティストを呼ぶってことだけじゃなくて、コミュニティの方に段々興味が移っていく。
大北:ああ、そっか、芸術を街のアイデンティティにしたその後だ。コミュニティが強くなってくのかもしれないですね。

塚田:家族連れのワークショップ参加者でにぎわってますね。
大北:今観光地で絵付け体験とかありますけど、あれってちゃんと人を呼んでるんですね。アートで街おこししてから30年で作品は年季が入ってきてますけど、残るものはあるんだな~。

 

県が降りた後、町の芸術が自立する

大北:さてこっちは県ではなく民間主導のふじのアートヴィレッジですね。
塚田:あ、猫がいますよ。

大北:これも作品なのかな?
塚田:かわいいですね、ちょっと入ってみましょうか。こんにちは。
大北:藤野町にお住まいの作家さんなんですか。
お店:私は2駅先山梨県の方から。お隣のお店は藤野の方がやられてるんですけど。
塚田:こちらでお店開こうって思ったのは?
お店:お家賃が安くて。それまではあちこち出かけてお店を出してたんですが、1か所の方が皆さんに来ていただけるので。
塚田:なるほど、委託販売だと自分が売るわけではないので誰が買ったかは分からないですしね。こういうふうに一か所に限定するとお客さんも顔見えるし分かりやすい。

大北:近隣の作家の人が集まってお店を出してるって感じなんですね。
塚田:建物もおしゃれですね、DIYだ。
大北:藤野町がここを作ったんではない?
塚田:多分全部は町じゃないと思います。神奈川県主導でやってて県が撤退したあとにできたはずなので。昔は行政と広告代理店も入ってやってたそうですが90年代に入ってからは完全にもうボトムアップ型でやりたい人の要望を取り上げる形に変わっていってるんです。このビートルズの曲を演奏しているライブもそういう感じですよね。
大北:あれも好きな音楽を歌ってるのかな。

大北:お店の方に話を聞いたらここの代表の方が話をしてくれるそうなので。
塚田:おっ、ラッキーですね。

ーーお話を聞いたのは旧藤野町役場の職員であった中村賢一さん。中村さんは役場をやめた後は一般社団法人を作ってここを作ったり廃ホテルを買い取ってアトリエとして貸し出したりしているそう。

中村賢一さん。元藤野町役場に勤めていて、今はこのふじのアートヴィレッジなどを運営している。

 

山あいの町にアートが突然やってきた

大北:藤野にパブリックアートを見に来たんですよ。
中村:1986年かな。県に総合計画ができて、40年にわたる街づくりの主要なものを決める「ふるさと芸術村構想」ができた。パブリックアートもその一つだけど、この40年の歴史の中でいろんな意味で進化してるんだよ。

ーー私たちは「戦中に芸術家が疎開してきたアートの街」と思ってやってきたのだが、住んでる中村さんからすればアートが掲げられたのは県が相模川流域の街おこしを始めた40年前からという認識になるようだ。役場の人としてずっとそれを見てた中村さんは1986年から90年あたりの突然アートがやってきた流れを第一期と呼ぶ。

中村:40年経ったら、今住人が8500人いるうちの350人がクリエイターというかアーティストになった。定義は難しいけどね。8500人のうちほぼ65%が移住組で、ここがミソなんだ。新規移住者のある種の価値観の違いが新しいものを作り出すんだよ。

ーー藤野とアートの40年が始まる前にはまずピンチがあったという。

中村:この町の最大のピンチは1970年代、バブルの前の時代かな。残土処分場とミニ開発で人が集まりだすんだよ。いわゆるベッドタウンでほぼ95%がサラリーマン。ポジティブに人が集まって来てないのはピンチだった。そしてやがて1986年にふるさと芸術村構想ができる。この相模川流域の市町村それぞれにここはこれをやりなさいっていう都市計画を県が作った。でもなぜ神奈川県はアートの街という性格を藤野に押し付けたんだろう。想像できるかい?

ーー街のアイデンティティとしてアートが適用された。中村さんによると、藤野の隣にある相模湖は相模原市、ひいては京浜工業地帯、首都圏一帯にとって大事な大事な多目的ダムだった。なので一帯は湖に影響のないような開発を求められ、その結果藤野に対して「アートでまちづくりをすること」が押し付けられたのだという。

相模湖は日本最初の多目的ダムで首都圏の発展にも重要だった。だから県は周りの環境に影響が出ないように藤野の街を開発するために、アートを置くことにした。

中村:バブルが弾ける前だからね。お金にものをいわせて世界から色んな作家を集めてきた。神奈川県が広告代理店に委託してパブリックアートが今29点あるんだっけな、孟宗竹2000本を使ったバンブーネスト(鳥の巣)とかね、そういうものを作った。あえて言えば行政主導のまちづくりだったんだよ。

同時に人が集まり出すんだけど、その時にクリエイターも多く集まり始めた。ほぼヒッピーだよ(笑)。バックパッカー的な自由に生きる人たち。こういう人たちの特徴はお金に貪欲ではない、社会に染まらない、反権力。それが第一世代になるんですよ。でも結果的に今日の藤野を作り出す町の花と言ってもいいかもしれない。

 

残されたアートと住民たち

ーーその後、県はアートのまちづくりをやめてしまう。藤野町がなんとかしなければならない。藤野とアートの第二期に入る。

中村:こんな小さい町、芸術がわかる人なんていないよ。神奈川県が撤退をして、住民がはたと困るわけだ。

塚田:予算が急に少なくなって芸術をどうやって残すのかですね。

中村:そこでやったのが2つ。藤野アートスフィア(※藤野のアートをまとめた冊子とイベント事業)の予算を200万残した。ここのイベントは充実してるんだよ。その予算を繰り返しながら成長した。そういう歴史がある。

もう 1 つやったのが移住者の斡旋。税金を使って家を貸すなんて、70 年代と同じことをやってると非積極的な人しか来ないと思われていた。

でも今度は移住者がヒッピーからアーティストに変わってくるのね。駅から遠くて音が出せるというメリットがある。
安い家賃。しかも団地ができるときみたいに一度に一気に集まってくるわけではない。団地だと30年経ったら高齢者の街になっちゃうでしょ。それに比較すると藤野は持続可能な形になっている。今でこそSDGsなんて言うけれども、結果アーティスト350人が移住者として増えてきたことの意味は大きい。

中村:1990年から 2003年までの間にその間にもう1つ面白いことがあってね。社会運動が増えているんだ。

第二世代の移住があった時代だね。パーマカルチャーセンタージャパンという永続可能な農業をもとに、持続可能な文化、人と自然が共に豊かになるような関係を推進していくような事務局ができた。それから日本で最初のシュタイナー学園(*1)を誘致するんだ。これがまた効果的だった。それから地域通貨よろづが導入された。エコとコミュニティという面はかなり進んだ。

*1......シュタイナー学園
オーストリアの哲学者・神秘思想家であるルドルフ・シュタイナーの提唱したシュタイナー教育を実践している小中高一貫校

ーー他にも芸術の国であるオーストリア政府が自国の若手アーティストの日本研修先にここ藤野を指定して100人以上のアーティストが訪れたそうである。中村さんによると産業の少ない藤野町にとってシュタイナー教育の学校ができたことは大きかったそうだ。この辺りから第三期に入っていく。

 

アートからリベラルな街へと移っていく

中村:1990年から2003年まで移住者たちが口コミでくる。街に産業は少ない。でもふるさと芸術村構想は後で火がつくんだよ。2003年小泉政権の構造改革特区を使ってシュタイナー学園を誘致する。この街の人口は毎年120人ずつ減っていくわけだけど、今は25人の新しい一年生が毎年持続的に入ってくる。しかもそのうちの7割の家族が定住するんだ。

そして2007年に社会的な大事件、市町村の合併が起きる。小泉政権のおかげで構造改革特区があって、同じ小泉さんの時代に市町村合併があった。語弊はあるけど合併で1万人の町が消えるわけだよ。

簡単に言えば、住民たちが予算や住民サービスを決める住民自治が小さくなる。5人いた保健師がゼロになったりね。でも「お金持ちと結婚したら豊かになる」って考えて町の生き残りをかけた最後の町長選は自立派は負けてしまう。

合併でそりゃ失ったものは多いよ。それでも合併で得たものもあるけど、想像できる? それはね、市民の自立だよ。だからこういう自立したアートスフィアみたいなイベントも続いている。この冊子を行政が作ったら誰も見ないよ(笑)。いろんな人たちが知恵を集めて作った。オール藤野でできたんだよ。

大北:住民サービスがなくなったし自立すっきゃねえという流れなんですね。ずっとサービスまみれで暮らしていたいですよね…。

立派な冊子がフリーで置いてある。

ーー市町村合併を経て藤野の第三期、現在に至るという。近年ではカナダ出身のアーティストが「お蚕さん」として親しまれた養蚕と染色の技術を引き継いで、ジャパニーズテキスタイルワークショップとしてインバウンドの外国人を多く集めているそうだ。

また、最近では不動産系ベンチャー企業のオフィスもシュタイナー教育をきっかけに来たそうで、アーティストにはなかった経済的な意識が生まれ、より持続可能なまちづくりが考えられたそう。

 

排除しない県民性があった

中村:いわゆる学者も来る、事業者も来る。そして今度はLGBTQの音楽イベントも来ることになっている。これはね、藤野には排除しないっていう文化があるんだよ。シュタイナー学園が来た時代、オウム真理教が話題だったりして世間では自分がよくわからないと思うものを排除しようという傾向もあった。それでも排除しないことを貫き通す文化が内側にあったんだ。

大北:その文化はどこから来てるんですかね?
中村:(東京、神奈川、山梨をまたぐ)三国山ってあるよね? JR中央線見たらよく分かる。新宿から松本までの沿線に神奈川県の駅はたったの2駅(藤野駅と相模湖駅)2駅手前の高尾は東京都、下りの隣は山梨県上野原駅。その昔から山梨出身者には立派な人が多いといわれ、藤野からは元気な起業家が育ちにくいといわれてきた。換金農業の養蚕においても智恵者は少なく、「はた屋」さんのひとつもできにくかった。こういう文化の違いから藤野の人たちは他の文化を受け入れる寛容さが育ったのではないか。
大北:(笑)。
塚田:そんなことはないでしょう(笑)。
中村:それでも排除せずに新しい価値観は取り入れるわけでしょ。さっきのLGBTQイベントだったり極端な文化が入ってくる。シュタイナー教育の特徴は自己肯定感が強いことだけど、地元の人は生意気な子供を嫌いそうなものじゃない? でもここの人は受け入れている。

中村さんの運営する廃ホテルのアトリエも案内してもらった。

ーー今中村さんはこのアーティストヴィレッジの他に廃ホテルをアトリエとして貸し出しているらしい。劇団もあったり、地元のミュージシャンも多い。行政きっかけで始まったアートが住民のものとして生まれ変わり、アートの町藤野町が完成しつつあるようだ。そんな中村さんと藤野の格闘は本にもなってるらしい。

中村:もし興味があったら『奇跡の村』っていう本を読んでみて。

ーーその後車で送ってもらいながら話を聞いたら中村さんは市町村合併時の町長選に自立派として出馬して僅差で敗れたそうだ。一連をそばで見てきた話しぶりであったが、当事者中の当事者であった。なので今日の話は中村さん側から藤野を見た話でもある。

塚田:面白いおじさんでしたね。藤野町ってアートの町って言われてるけど、美術業界からはあんまり言及されない不思議な立ち位置なんですよ。 前回も触れましたが当初は発想が行政の延長線上にあったんですが、その後県の予算が降りなくなった結果狭義のアートから離れて、コミュニティとかパーマカルチャーとか独特の広がりを見せたことが絡んでいるんだと思うんです。だからアート好きな人も実はあんまり知らないような気がします。僕もこの機会に藤野について調べることができて、非常に勉強になりました。
大北:政治でアートの町になって、それで人が来たりそこから住民が自立していくのおもしろいですね。アートの記事のしめで言うことじゃないですけど、政策の影響ってでかいですね……。

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DOORS

大北栄人

ユーモアの舞台"明日のアー"主宰 / ライター

デイリーポータルZをはじめおもしろ系記事を書くライターとして活動し、2015年よりコントの舞台明日のアーを主宰する。団体名の「明日の」は現在はパブリックアートでもある『明日の神話』から。監督した映像作品でしたまちコメディ大賞2017グランプリを受賞。塚田とはパブリックアートをめぐる記事で知り合う。

DOORS

塚田優

評論家

評論家。1988年生まれ。アニメーション、イラストレーション、美術の領域を中心に執筆活動等を行う。共著に『グラフィックデザイン・ブックガイド 文字・イメージ・思考の探究のために』(グラフィック社、2022)など。 写真 / 若林亮二

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