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2022.10.14

【後編】「遊び」を通じて考えた、人間らしさってなんだろう? / 連載「作家のB面」Vol.6 布施琳太郎

Text / Moe Nishiyama
Photo / Kaho Okazaki
Illustration / sigo_kun
Edit / Eisuke Onda

アーティストたちが作品制作において、影響を受けてきたものは? 作家たちのB面を掘り下げることで、さらに深く作品を理解し、愛することができるかもしれない。連載「作家のB面」ではアーティストたちが指定したお気に入りの場所で、彼/彼女らが愛する人物や学問、エンターテイメントなどから、一つのテーマについて話してもらいます。

第五回目に登場するのは布施琳太郎さん。製本印刷工場跡地で開催された展覧会「惑星ザムザ」や渋谷PARCOで開催された「新しい死体」など、現代の「展覧会」というフォーマットへの問いを起点に、情報技術や詩によってアナグラム化された変質する形態について思考するアーティスト。詩人、デザイナー、研究者、音楽家、批評家や匿名の人々などと協業することにより編まれる表現方法は絵画やテキストによる描写、インスタレーションなど多岐に渡ります。

そんな彼が前編では大好きな葛西臨海公園水族館と、遊戯王やベイブレードの魅力を語りました。そして後編ではそうした遊びを布施さんがどのように分析し、作品や展示に取り組んでいるのかに迫ります。

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前編はこちら!

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【前編】“水族館”“ベイブレード”“遊☆戯☆王”、遊びが教えてくれたこと / 連載「作家のB面」Vol.6 布施琳太郎

遊びの上では社会的な立場は関係ない

――前編で紹介してくださった「水族館」や「遊☆戯☆王」、「ベイブレード」などの遊びを俯瞰して見ていくと、布施さんは自ら「遊びの生まれる状況」を生み出し、作品制作に通ずる何かしらのテーマを観察することを楽しんでいるのでしょうか?

遊んでいる間は、自分で作り出した空間の王様になれるわけです。ただし遊んでいる状況を俯瞰して見ているからといって、そこから得たことを自分なりにかみ砕いて社会に還元してしまったら、その瞬間にそれは「遊び」ではなく「リサーチ」になるんだろうなと思うんです。俯瞰して見ているのは、より充実して遊ぶためであって、制作のためではありません。ベイブレードに関しても批評を書くことや、作品にすることは今までに何回か考えたのですが、何も思い付かないんです。本当に回すことを目的に、遊ぶためだけにつくっているので、作品にはならないのかもしれません。

――ちなみに、布施さんはどんな場合に「遊び」が成立すると思いますか。

極論、僕自身の場合は、「遊び」は同居している人も家にいないような、本当の意味で一人で家にいるときに発生します。そして前編でもお話した「テーブルトークRPG(TRPG)」で勇者になることもそうなのですが、自分が小学生であるとかアーティストであるとか、大人である、子どもである、男である、親であるといった社会的規範とは無関係に、「勇者であれ」みたいなことができてしまうとき、遊んでいるなと感じますね。

たとえば自分が会社で働いていたとしたら「〇〇社の布施です」と言わなくてはいけないわけですよね。「ただの布施琳太郎」でいることは会社の中ではできないわけです。けれど親や子、学生であるというような役割や肩書きから逃れて日常の規範からかけ離れたところで、自分が自分自身(社会的な規範から離れ、「勇者」をはじめ何者にでもなれるという自分)としてのみそこに存在してもいいんだと思えることが、「遊び」の条件なのだと思います。遊んでいるということは、僕が僕であり、アーティストであることすら必要とされていない、ただ回っているベイブレードを見つめている間、自分がアーティストであるということは不要なので、それがいいなと。

 

なりきる、演じる、模倣する。一次遊びと二次遊び

――こまが回っているのをただ「見る」こと自体が遊びである、という観点で捉えると、プレー動画だけを見たり、ゲームをしている横で見ているのだけが好きな人って一定数いますよね。それについてはどう考えられますか。

ライトノベルの先駆け的な作品で『ロードス島戦記』というファンタジー小説があるんです。この作品はたしか、80年代くらいのパソコン雑誌『コンプティーク』で始まった「リプレイ」(*1)と呼ばれるTRPGの実況中継をした連載『ロードス島戦記』を小説にしたものなんです。ここでは、世界で最初のロールプレイングゲーム(RPG)とされている1974年に制作・販売されたアメリカのファンタジー・TRPG『Dungeons & Dragons』を誌面上でリプレイする試みだったのですが、具体的には編集部の人たちが、「〇〇さん、今日は勇者でお願いします、自分は魔法使いいきます」というかたちでTRPGGをしている状況が文章で綴られている。そうしてリプレイされた『ロードス島戦記』を読む人たちがいるわけですよね。ゲームの実況中継とも近いと思うのですが、その場に面白い語り手がいなくても、テーブルトークRPGを面白がる方法として、話のうまい人たちが楽しむ様子を楽しむという文化があったんです。それが、『スレイヤーズ』などの「ライトノベル」的なかたちとなり、もしかしたら、この数年間流行っている「異世界転生もの」(*2)のストーリーとなったのかもしれない。

*1……TRPG などのゲームを遊び、その経緯をなんらかの媒体に記録したものをリプレイと呼ぶ。一般的には戯曲のように対話の内容を綴ったものが多いが、記録を小説にしたり、CDにしたりすることもある。
*2……私たちが住んでいるような現代社会で死に(あるいはめまいなどひょんな事がきっかけで)、過去の記憶はそのままにTRPGのように異世界へと転生するファンタジーもの。『転生したらスライムだった件』『Re:ゼロから始める異世界生活』などライトノベルからアニメ化し熱狂的に支持される作品が多く。近年ではさまざまな設定でこの手の作品が量産される。

――たしかに「異世界転生もの」はここ数年で量産され続けていますよね。それを読む読者の人たちもたくさんいるということでもありますが。

転生し続けたいと望む人が多いのかもしれないですね。僕はあまり誰かが遊んでいる様子の実況中継や文字起こしを読んでもあまり楽しめない人間なのですが、ある意味、「遊び」には一次遊びと二次遊びというものがある。「遊び」をプレイすることを楽しむ方法と、プレイしている人を観て楽しむ方法。いわゆる一次遊び側が好きな人たちは創作活動とかも好きな人たちに多いかもしれません。そして遊びとは別に、「芸術を観る」という体験もまた近いものがあると思っています。たとえば、一枚の絵の前に立つことや一枚の絵を観て感動することは、本来ならばその人がどういった社会的な立場にある人なのかは別に関係ない。むしろ、その絵の前に立っている自分自身がここにいることを肯定するためにその絵を観ているとも言えるかもしれない。「労働」を通じて社会的に位置づけられていること、「遊び」を通じて単に私自身として私がここにいるということ、を行き来する営みが人間らしさだと思いますし、そのきっかけが、展覧会や作品を通じて作れたらなといつも思うんですよね。

 

受け手側の能動性が物語を作り出してしまう

布施さんがキュレーションした展覧会『惑星ザムザ』より、写真上はMES《Stellar's End /恒星の終り》(2022)、写真下は横手太紀《When the cat_s away, the mice will play》(2022)

――では布施さんが企画する展覧会の話もできればと思います。今年の5月にキュレーションされた展覧会「惑星ザムザ」では来場者が作品を鑑賞することを「観測」と書かれていましたよね。そもそもこの展覧会は印刷工場の跡地、ある種、廃虚というか、普通だったら人が訪れないような場所で、あえてわかりにくく、かつ回遊させるような導線の展示でした。どういった思考プロセスを経てあのように展示が作られていったのでしょうか。

作品に対して解説があり、その展示の必然性を開示して、あなたの人生とこの作品は関係があるんですと説得するよりも、鑑賞者自ら必然性を見出してもらったほうが、その人の人生にとってかけがえがない経験になる可能性が高いのではないかと思っています。たとえば、みんなは見過ごしているけれど、これはすごくきれいだなと、自分なりに見つけていくことで、前に話していたような「その人がその人としてそこにいる」というシチュエーションになりやすいのかなと思っています。いわゆるコンピュータゲームにも、単に一本道で指示通り歩かされるようなゲームではなく、プレイヤーが自分の意思で行き先を決めて冒険する「オープンワールド」のゲームのように、自分は自分として冒険をしていると感じてもらうために、右に行くべきか左に行くべきかもわからない素朴なレベルから、作品のコンセプトや制作理由に至るまで、鑑賞者にアートなりの方法で能動的な自分自身の再発見みたいなものがなされたらいいなと思いながら展示を組み立てていきました。

――なるほど。今の話を聞いていて「マジック・ザ・ギャザリング」のカードを思い出しました。トレーディングカードゲームって本来ならば効果だけ書いてあればゲームができるところ、そのカードについての物語が載っているのが謎だなと思ったんです。ただ今のお話を聞いていて逆にあの分かりにくさがないと、ゲームをやらされている感があるかもしれないですね。

「惑星ザムザ」のステイトメントに、嫌味で「フレーバーテキスト」(*3)みたいだという指摘をいただきましたが、まさにそうしたことを意識しています。大塚英志さん(*4)の『物語消費論』という書籍にも出てくるのですが、80年代に流行ったロッテの「ビックリマンチョコ」というものがあるのですが、これにはチョコレート一つにつきシールが一枚ついてきて、「ビックリマン」についての壮大な物語の断片が記されているんですね。大きな分かりやすいストーリーではなく、物語の断片の記されたシールを集めることで自分の中で自分なりに世界が徐々に現れてくる。そのこと自体に子どもたちは熱中しているんじゃないかと。そうした受け手側の能動性が物語を作り出してしまう、ある種の二次創作にも似た大衆文化についての大塚さんの研究には感銘を受けました。作り手と受け手の立場が常に反転するかも可能性に溢れた緊張感ある世界観みたいなものが自分なりにアートに組み込めたらいいなと思いますし、そういう新しい作者と受容者みたいなものは、もっともっと尖ったかたちで実践できたらいいなと思っています。

*3……トレーディングカードゲームに書かれている、効果などゲームの進行と関係ない、世界観を表すためのテキスト。
*4……漫画『多重人格探偵サイコ』『黒鷺死体宅配便』などの原作者であり、研究者。漫画やオタクカルチャーの評論に関する著書多数。

 

ある、広がる、集まる、コミュニケーションの先に文化が生まれる

――改めて今回の遊びの話で面白いなと思うのは、カードやベイゴマなどおもちゃがそこにあることで、それが場になってしまうこと。ある種、箱がなくても成立しちゃう感じみたいなのがめちゃめちゃ面白いなと思っていて。

文化の本質って本当はそういうことだと思うんです。制度がどうこうというよりも、何かがそこに「ある」ことで、場が生まれ、コミュニケーションが生まれていく。コロナ禍以降の自粛期間の初期、歌舞伎町のTOHOシネマズの回りを歩いていたら、道路に立てかけた小さいiPhoneの画面に向かって踊っていた女子高生を見かけたんです。おそらくTiktokを撮っていたのかもしれません。Bluetoothでスピーカーにつないでいるのかなっていうぐらいの大きな音量で曲が流れているけど、置いてあるのは小さい画面のみ。そこにiPhoneがあり、女子高生が2人集まる、という一つのものの回りに一つの場が生まれてしまっている状況が、本当は文化のかたちなのではと。そのスケールが大きいものが、たとえばモナリザ。何とも言えないサイズの1枚の木の板の回りに毎年何百万人も集まって、1枚の板がそこにあること自体がフランス国民のアイデンティティをつくることにすらつながっている。

――ある意味、遊びは布施さん一人でも成立するかもしれないことに対して、展示では鑑賞者がいることが前提となっています。布施さんがエキシビションという形態をとって見せたいものというか、人と共有する、もしくは展示したいものはどういったことなのでしょうか。

僕の制作は基本的に誰かとのコミュニケーションがあまりうまくいかなかったときに、うまくいかなかった理由を自分なりに言葉にしてみようとすることの中で、思い浮かんだアイデアがほとんど全てです。それがそのままスプレーで顔を描く作品になったり、映像作品になったり、詩になったりしているのですが、そのときに伝えたいことっていうのは、うまくいかなさであったり、基本的にネガティブだと社会の中でされているようなことや言葉、これまで自分が使ったのだと「孤独」とか「沈黙」「死体」とか、そういうものをポジティブなこととして使い直したいということです。それは失敗してしまった過去のコミュニケーションを、自分のなかで繰り返し反芻することで、過去の認識を書き換えて、よかったのでは?という気持ちになることと似ているかもしれません。展示のアイデアを練る瞬間っていうのは、ある種、一人きりでベイブレードを回すようなことに近いかもしれないですし、振り返ってみると、僕のテーマは「コミュニケーション」といっても過言ではないと思いますね。

――最後に、今後布施さんが取り組みたいと思っていることがあれば教えてください。

目下、やりたいこととしては水族館か、プラネタリウムで展示をやりたいですね。そもそも水族館もプラネタリウムもその場所自体が面白いんですけれど、プラネタリウムのほうが現実的に自分がやりたいことと関係があるなと思っていて。その理由は、プラネタリウムは係員の方の語りで進行する「話芸」の場所でもあるということ。「今いる位置から前を見ると北斗七星が見えます」というところから、途中で、「では、銀河系のかなたまで行ってみましょう」と星空が、星のあいだを抜けて、100億光年先まで視点を飛ばされたりする演出がある。本来物語じゃないものを物語として描き直しちゃうみたいなことが自分がやっていることと近いなと思いますし、そこで何か、そもそも物語化すること自体がすごい想像力が飛躍している出来事だと思うので、もっと飛躍しているのもいいのではないかなと。この語り手のテキストを書きたいですし、語りによる進行の中で、無意識のうちに詩やアート、映像が展開することができたら面白いだろうなと。自分がアートを観ているって気づかずに観ている人たちがたくさんいるという間違いを起こせたら楽しいですね。

infomation

布施琳太郎参加展示
「時を超えるイヴ・クラインの想像力―不確かさと非物質的なるもの」

戦後のフランスで活躍した新しい人間性を探求したアーティスト、イブ・クラインの展示が現在開催中。イブ・クラインの作品を中心に同時代作家、さらに布施さんなど現代の作家を加えて、彼らの芸術に共通する「非物質性」というテーマを浮かび上がらせる展示となっている。

会期:2022年10月1日~2023年3月5日

会場:金沢21世紀美術館

住所:石川県金沢市広坂1-2-1

電話番号:076-220-2800

開館時間:10:00~18:00(金土~20:00)

休館日:月曜(10月10日、10月31日、1月2日、2023年1月9日は開場)、10月11日、11月1日、12月29日〜2023年1月1日、1月4日、10日

料金:一般 1400円 / 大学生 1000円 / 65歳以上 1100円 / 小中高生 500円

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ARTIST

布施琳太郎

アーティスト

1994年、東京生まれ。アーティスト。恋愛における沈黙、情報技術や詩によってアナグラム化された世界、そして洞窟壁画において変質する形態についての思考に基づいて、iPhone発売以降の都市で可能な「新しい孤独」を実践。絵画やテキストによる描写、展覧会や映像の編集などを、アーティスト、詩人、デザイナー、研究者、音楽家、批評家、匿名の人々などと協働して行っている。主な個展に「すべて最初のラブソング」(2021/東京・The 5th Floor)、「イヴの肉屋」(2022/東京・SNOW Contemporary)、参加企画展に「ニュー・フラットランド」(2021/東京・NTTインターコミュニケーションセンター[ICC])、「新しい成長の提起」(2021/東京藝術大学美術館)、「身体イメージの創造――感染症時代に考える伝承・医療・アート」(2022/大阪大学総合学術博物館)、キュレーターとしての展覧会企画に「iphone mural(iPhoneの洞窟壁画)」(2016/東京・BLOCK HOUSE)、「新しい孤独」(2017/東京・コ本や)、「ソラリスの酒場」(2018/横浜・The Cave・Bar333)、「The Walking Eye」(2019/横浜赤レンガ倉庫一号館)、「隔離式濃厚接触室」(2020/ウェブページ)、「沈黙のカテゴリー」(2021/名村造船所跡地[クリエイティブセンター大阪])、「惑星ザムザ」(2022/東京・小高製本工業跡地)などがある。

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