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2024.07.24

【前編】戦後40年間隠された風船爆弾の歴史を見つめに、明治大学平和教育登戸研究所資料館へ / 連載「作家のB面」Vol.24 小林エリカ

Photo/ Saki Yagi
Text / Yoko Hasada
Edit / Eisuke Onda
Illustration / sigo_kun

アーティストたちが作品制作において、影響を受けてきたものは? 作家たちのB面を掘り下げることで、さらに深く作品を理解し、愛することができるかもしれない。 連載「作家のB面」ではアーティストたちが指定したお気に入りの場所で、彼/彼女らが愛する人物や学問、エンターテイメントなどから、一つのテーマについて話しを深掘りする。

今回、明治大学にある「平和教育登戸研究所資料館」で待ち合わせたのはアーティスト・小林エリカさん。何度も訪れ、自身の創作の活力になっているという場所で、たびたび題材として扱う「戦争」について話を聞いた。

二十四人目の作家
小林エリカ

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作家、マンガ家、アーティスト。目に見えないもの、時間や歴史、家族や記憶、声や痕跡を手がかりに、入念なリサーチにもとづく史実とフィクションを織り交ぜた作品を制作する。その表現方法は小説、絵画、マンガ、インスタレーション、朗読劇など多岐にわたる。

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現在3巻まで出版されている放射能についての歴史を紐解いた漫画『光のこども』(リトルモア) ©Erika Kobayashi, Yutaka Kikutake Gallery

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《わたしのトーチ》2019年 デジタルCプリント 54.9×36.7cm(各、47点組)撮影:野川かさね  ©Erika Kobayashi, Yutaka Kikutake Gallery

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《交霊 -娘の娘と父- 》2021年  ビデオ ループ 撮影:西村亜希子、秋山達/「りんご前線 -Hirosaki Encounters-」展 弘前れんが倉庫美術館《旅の終わりは恋するものの巡り逢い》展示風景   ©Erika Kobayashi, Yutaka Kikutake Gallery

 

沈黙を破る。市民活動から生まれた平和資料館

取材は小林エリカさんたっての希望で「明治大学平和教育登戸研究所資料館」で行われた。登戸研究所は旧日本陸軍の研究所として、戦時中に秘密裏に行われていた生物兵器の研究や偽札製造、風船爆弾の開発などをしていた施設。戦後、明治大学がこの土地を買取り、その後起きた市民運動を発端に戦争遺跡として資料館に転用。同館では研究開発が行われていた当時の資料なども数多く展示している

──本日の取材場所は、戦時下、秘密戦兵器や資材などを研究・開発していた旧陸軍の研究所「明治大学平和教育登戸研究所資料館」です。終戦とともに閉鎖された登戸研究所の跡地を活用し、戦時下に研究開発された物や資料を展示することで、戦争や平和について考える平和教育の発信拠点となっています。こちらを選ばれた理由は?

私は長らく家族史をもとに、その背景にある戦争や核、“放射能”の歴史などをテーマにした作品を作ってきました。その過程で風船爆弾について知り、5月に小説『女の子たち風船爆弾をつくる』を上梓しました。風船爆弾とは、陸軍登戸研究所が開発した風船型の兵器です。直径約10メートルの和紙とこんにゃく糊でつくった風船に爆弾や焼夷弾を吊るしたもので、偏西風を使って約2日で太平洋を横断。約9000個が放たれ、約1000個がアメリカに到達したといわれています。オレゴン州ブライで牧師を夫にもつ妊娠中の女性と教会の日曜学校の子どもたち6名が亡くなり、それが第二次世界大戦中、アメリカ本土での唯一の犠牲者となりました。その歴史を調べてゆくなかで、かつて風船爆弾開発を極秘に行っていた場所、その建物が今なお残され、平和教育のための資料館になっている、この明治大学平和教育登戸研究所資料館を訪れました。

風船爆弾の展示スペース。当時、風船爆弾の風船づくりには高等女学校の生徒たちが駆り出された

本格的に小説の執筆を進めるにあたってたびたびこの場所を訪れているのですが、明治大学平和教育登戸研究所資料館の山田朗館長はじめ、学芸員やスタッフのみなさまに何度もお力を借りました。また、執筆中もここに来るだけで勇気づけられましたし、もっと多くの方にこの資料館のすごさを知ってもらいたい、という思いでここを選ばせてもらいました。

━━実際に施設を訪れるなかで、印象的だったことはありますか?

すごく感動したのが、専門家の方による解説付きで史跡を歩く「見学会」に参加したときのことです。アーティストで作家の瀬尾夏美さんに勧めていただき、渡辺賢二さん案内の回に参加したのですが、それがとても素晴らしくて。というのも、かつて地元の高校教師で、平和学習をやっていた渡辺さんは資料館ができるずっと前、「登戸研究所」の存在すらまだ知られていなかった頃からずっと、この建物の周辺を歩き続けていらっしゃるんです。

ここが戦争中に一体何に使われていたのか全くわからなかったから歩きはじめた、と聞きました。登戸研究所は軍の極秘の研究所だったため、敗戦時、「ここであったことは墓場まで持っていけ」と箝口令を敷かれていたので、戦後40年あまり経った後でさえ、誰もここが何だったのかを語ろうとしなかったそうです。渡辺さんをはじめ、市民の方々も参加し「歩いていたら誰か来て、教えてくれるかもしれない」と毎週末歩き続けていたら、少しずつ「実はここで働いていました」と話してくださる方が現れ、次第に全貌がわかっていったそうです。

──市民の方々の地道な活動のおかげで、ようやく話すことができた人を想うと、素晴らしい活動ですね。

書籍にも登場しますが、そうした活動によって、当時10代でタイピストをしていた関コトさんという方がかつてタイプした登戸研究所の貴重な資料を、渡辺さんに手渡したということも大きなことでした。和文タイプって、タイピングを覚えるのがとても大変なんですね。敗戦時に資料をすべて燃やすように言われたとき、自分がものすごく頑張った成果をどうしても燃やせないと内緒で持って帰ったものを、見せてくださったと。それは、防衛庁にも残っていない貴重な資料だったそうです。

そんな風にして、40年間話せなかったことは、「自分の歴史が消えたみたいになる。それがだんだん苦しくなった」とおっしゃる方がぽつりぽつりと現れ、語り始めたのだと聞きました。そうして、渡辺さんの教え子でもある高校生たちの聞き取り調査も熱心に行われるようになり、やがて「登戸研究所を保存しよう」という市民活動が起こり、ついに2010年にこの明治大学平和教育登戸研究所資料館が開館したというのです。

──約40年前に渡辺さんが歩き始めたことが、資料館につながるのですね。

渡辺さんが歩き続け、そこから市民活動が広がり、資料館が生まれ、今なお歩き続けていると知ったら涙が溢れてしまって……。渡辺さんが、高校生たちが、一人ひとりが、歩いて、聞いて、動いた結果、この場所が出来たんです。歴史というものは、一人ひとりが創るんだ、と実感しました。

──市民活動がなければ、ここであったことが知らされないままだったかもしれませんしね。

私は心のどこかで、教科書に載っていることを一生懸命勉強すれば、それで歴史を学べる、と思っていました。歴史というのは、だれか国の偉い人とか、歴史の専門家だとか、そういう人が創ってくれるものだと信じていた。ですが、40年間歴史からなかったことにされていた事実がある。誰かが耳を傾け、聞いたからこそ、刻まれた歴史がある。ここは、そのことを、身をもって知ることができる場所です。

残念ながら今も戦争が起こっていて、自分ひとりでは無力だという気持ちに苛まれることが、私にもあります。ですが、そんなことは全くなくて、一人ひとりの力で、それを積み重ねていくことで、何かを変えることができるんだ、という事実を、この場所が思い出させてくれます。

──見学会に参加してみたいです。

ぜひ。本当に胸打たれました……だって、戦後40年から毎月やっていらっしゃるんです。一度の参加人数は限られていますが、かなりの回数重ねていらっしゃるので、これまでに相当数の方が参加されています。見学会はすぐに満員になってしまうこともあるので、本当に必要とされている場所なんだと思います。

研究所には戦時中に使われていた倉庫跡もありこちらも観覧可能。コンクリートで出来た天井が高い正方形の空間に入った小林さん、「ここでインスタレーションができそう....」とぼそり

 

戦時下、少女たちが青春を捧げた風船爆弾づくり

風船爆弾の1/10模型を見つめる小林さん。実際の風船の大きさは直径約10m。とても大きな気球を秘密裏に製造するため、東京では宝塚劇場が使われた

──小説の題材となった「風船爆弾」に興味を持たれたきっかけを教えてください。

漫画『光の子ども』を執筆中、毒ガスについて調べるために製造所があった広島県の大久野島に行った際に、そこで風船爆弾がつくられていたことを知りました。また、アメリカのマンハッタン計画(極秘原子爆弾製造計画)で、原爆のコアとなるプルトニウムを生成していたハンフォード・サイトという工場があり、そこの電線に風船爆弾がぶつかったことで停電を引き起こしたため、原子爆弾の製造が三日遅れた、と言われていることも知りました。それらの話から、私が通っていたカトリックの学校のシスターが、かつて雙葉の高等女学校時代に東京の宝塚劇場で風船爆弾つくりをしていたという話を母から聞いたことを思い出し、自分の中で何かが結びついたように思いました。

《U234とU235 キールにて》と《わたしの手の中のプロメテウスの火》 2019年 「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」展 国立新美術館 《彼女たちは待っていた》展示風景 撮影:中川周 ©Erika Kobayashi, Yutaka Kikutake Gallery

──雙葉のようなカトリックの学校も風船爆弾づくりに関与していたんですね。

雙葉には海外からやってきたシスターたちも多くいました。当時は、マダムと呼んでいましたが。私自身もカトリックの学校に通っていたので、どうしても、キリスト教の教えと、国策に関わることが結びつかなかった。けれど、調べていくうちに、キリスト教の学校は日本兵士のための慰問袋を真っ先に、しかも一番たくさん送ったと知りました。というのも、天皇陛下を崇拝する当時の日本の中では、キリスト教、しかも外国人がいる学校というのは、最も立場が弱い。社会的に一番弱い立場に置かれているからこそ、強い立場のものに協力する姿勢を見せないと生き残れない。弱い立場であればあるほど生き延びるために強い立場のもの、大きなものに積極的に迎合しなければいけない、という過酷な現実のことを考えさせられました。それは今なお、身近にもあることだと思います。

小説『女の子たち風船爆弾をつくる』(文藝春秋)は風船爆弾に関わった少女たちの記録や史実をもとに、彼女たちの戦時前、戦時中、戦後を小林さんが綴る

──『女の子たち風船爆弾をつくる』では、高等女学校に通う女の子たちが極秘任務を遂行する姿と国に対して忠誠心を持っていく様がグラデーションで描かれていて、戦時下の風潮に呑まれてしまう状況が手に取るようにわかりました。

頭では戦争なんていけないとわかっていますが、当時の声をたどっていくと、この状況下で大きなものに抗えるだろうか、少なくとも私は、自信がない。女の子たちが自ら進んで協力したいと望む気持ちのようなものが、すごく私にもある。

恐らく、女の子たちにとって高等女学校というのは、最後の自由な時だったのだと思います。卒業してしまったら親が決めた人と結婚して、婚家に入り、友だちとも自由に会えなくなる。風船爆弾に関わっていた女学校の方々をリサーチする中で、戦後、亡くなる直前まで枕元に女学校時代のサイン帳を置いていらしたという方の話も聞きました。それほどまでに、高等女学校時代というのは、大切な時間だったのです。それが戦争によって奪われてしまったということの重みは、計り知れません。それどころか、役に立ちたいと頑張ったことが、人を殺してしまうことにつながっている。しかも、そのことを、知らなかった、知らされなかった。その恐ろしさを想像すると、何重にも苦しいです。

写真上は実際に風船爆弾に使われた和紙。生地を5枚、こんにゃくのりで貼り合わせることで強度を高める。写真下はこんにゃくと和紙の材料である楮(こうぞ)。戦時下は風船爆弾の製造のため台所からこんにゃくが消えたらしい

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【後編】誰かの声を次の世代につなげるため、徹底的に調べ、そしてアートを生み出す / 連載「作家のB面」Vol.24 小林エリカ

  • #連載 #小林エリカ

 

自分が歴史を創っていく意識を胸に刻む

資料館の中でもお気に入りの場所の一つだという暗室。「当時の雰囲気が伝わってくるような気がします」と小林さん

──小林エリカさんの創作の根幹には、なぜ戦争があるのでしょうか。

なぜ私はここに生きて、どうして同じ世界の別の場所では戦争が起きていて、私ではない誰かが死んでいるのか、死ななければならないのか、ということを子どもの頃からずっと考えています。未だに答えは出ていないのですが、それを知りたい、という気持ちが私の創作の原動力となる問いなのだと思います。

漫画『光の子ども』1-3(リトルモア) ©Erika Kobayashi, Yutaka Kikutake Gallery

──昨今の戦争のニュースからも、決して戦争が遠い昔のできごとではなく歴史から地続きであること、そして私たちの暮らしと切り離せないことを突きつけられているように思います。その中で、個人ができることには限界があると無力感を感じる場面も多々あるのですが、小林さんは個人個人が戦争とどのように向き合っていけばよいと思われますか?

私自身も、無力感を感じてしまうことは多々あります。そういうときはいつも「この資料館を、明治大学平和教育登戸研究所を思い出して!」と自分に言い聞かせるようにしているんです。だって、ここは一人ひとりの力が集まって、実際にできた場所ですから、希望が持てますよね。どうせひとりの力では何も変わらない、というような諦めは、ただの幻だし、必要ない。一人ひとりが、自分自身が歴史を創るんだ、という意識をはっきり胸に刻んで、私は日々生きていこうと思います。

──意識を持つだけで、大きく変わるかもしれませんね。

ときに絶望しそうになることもありますが、この場所を前にすると一人ひとりの力で大きな何かを変えることもできるんだ、っていうことがはっきり目の前に差し出される感覚になります。そういう意味で、私はこの場所が存在しているということそのものに、大いに勇気づけられています。これからも、自信を失いそうになったり、心が挫けそうになったりしたら、ここへ来たいな。

後編では小林さんのリサーチに基づいた制作についてなどを聞いた

Information


〈明治大学平和教育登戸研究所資料館〉

住所:神奈川県川崎市多摩区東三田1-1-1
※明治大学生田キャンパス内
開館時間:10:00~16:00(水曜~土曜のみ開館)
※大学の都合により臨時休館になる場合あり
詳細はこちら

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ARTIST

小林エリカ

アーティスト

1978年東京生まれ。作家、マンガ家、アーティスト。目に見えないもの、時間や歴史、家族や記憶、声や痕跡を手がかりに、入念なリサーチに基づく史実とフィクションを織り交ぜた作品を制作する。主な展覧会は個展に「わたしはしなないおんなのこ/交霊」(2021年、Yutaka Kikutake Gallery、東京)、「 His Last Bow」(2019年、Yamamoto Keiko Rochaix、ロンドン、イギリス)、グループ展にグループ展に「Omoshirogara」(2022年、MuseumDKM, Duisburg、ドイツ) 、「りんご前線 — Hirosaki Encounters」(2022年、弘前れんが倉庫美術館、青森)、「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」(2019年、国立新美術館、東京)などがある。

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