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2023.09.15

辰野登恵子作品で抽象絵画の見方がわかる / 連載「街中アート探訪記」Vol.22

Text / Shigeto Ohkita
Critic / Yutaka Tsukada

私たちの街にはアートがあふれている。駅の待ち合わせスポットとして、市役所の入り口に、パブリックアートと呼ばれる無料で誰もが見られる芸術作品が置かれている。
こうした作品を待ち合わせスポットにすることはあっても鑑賞したおぼえがない。美術館にある作品となんら違いはないはずなのに。一度正面から鑑賞して言葉にして味わってみたい。
以前もミニマルアートの見方がわかる回があったが、今回は抽象絵画の見方がわかる回になった。あなたの芸術の見方が変わる。それも誰もが見られるパブリックアートで。

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日米の「ポップ」が出会う2人のアーティストによる共作作品 / 連載「街中アート探訪記」Vol.21

  • #大北栄人・塚田優 #連載

大北:辰野登恵子作品を見に有楽町の国際フォーラムにやってきました。
塚田:前回はコンセプトを見る系の作品だったじゃないですか。これは逆で、絵を見る系の作品ですね。
大北:額縁がすでにしっかりあるタイプの。
塚田:はい、そこから先ですよね。
大北:絵の具で描かれてるんですよね。すごく一般的な絵ということですかね。
塚田:少なくとも19世紀後半から現代にも直接通じる近代絵画が始まってるんで、そこから150年近く経ってると考えると一般的とはなんぞやとも思いますけどね。
大北:150年前ぐらいからただ風景描くのやめようみたいな絵が出始めたってことですか。
塚田:おおざっぱに言うとそうですね。印象派の辺りから流れができて、その展開のひとつとして抽象絵画ってものが出てくるわけなんですけど、その中でも辰野さんはジャンルを代表するような仕事ができている作家であると僕は見ています。
大北:辰野登恵子さんはご存命ですか?
塚田:10年近く前に亡くなられてます。
大北:世界的にも抽象絵画で名の知られた方なんですか?
塚田:日本での高い評価に比べると、そこまで海外で知られているという印象はありません。もちろん、各国で展示歴はあるんですけどね。

大北:おっ、ありました。有楽町の地下鉄から国際フォーラムのCホールに上がるエスカレーターの踊り場壁面に1つずつありますね。コンサートなどでCホールが開館してないと見られないかと。

辰野登恵子 『無題 95-15』東京国際フォーラム

 

出来事を描いている

塚田:結局抽象画って何を描いてるのかって話になるじゃないですか。
大北:やってしまいます。「これなんなの?」って。
塚田:そういう質問に対して辰野さんは「物を描いているんじゃなくて出来事を描いている」というふうな言い方をするんですよ。
大北:出来事か~、さらに頭を抱えますね。
塚田:具体的に例えるならば、この絵だったらまあ桃みたいに見えるじゃないですか。そうじゃなくて、物と物の前後関係とか間の空間それ自体を描いてます、という説明の仕方になるんですよ。つまり何かと何かがあれば必ず生じる空間での関係のことを辰野さんは「出来事」と言ってるんですね。
大北:それってあの絵で言うなら、桃と桃の間にあるひし形みたいな空間のことだとか?
塚田:そうですね。

大北:あのひし形を描きたくて桃みたいな物を用意してるんですかね?
塚田:そう言ってもいいでしょう。もちろんそれだけじゃなくて、出来事そのものとなると、球みたいなものの量感とかそういったものも含まれてきます。

 

物ではなく出来事とはなにか

大北:う~ん、辰野さんは世の中にある物、例えばこの辺に草があったりとかしてそれを一回「ぼうぼうにある」という出来事と捉えた上で描いてるわけですか。それとも「ぼうぼうさを描きたい」とか思って「だったら草っぽいものだな」と想像して描いてるんですかね。
塚田:どちらかと言うと前者かと思います。辰野さんの場合は、世の中の物を捉えることから始めるタイプの作家さんですね。研究とか評論の中で引用されてる辰野さんの着想に関して、定番の言葉があるんですよ。
大北:あ、定番とかあるくらいに研究されてるんですね。
塚田:辰野さんは大作家ですからね。その中でよく引用されてるのが、地下鉄を待ってる時に反対側の壁のタイルの格子模様を見ていると、その格子模様のタイルが欠けてたり、ちょっと汚れてたりして、イレギュラーなものが同時に見えてくると。
大北:規則的に並んだタイルに不規則なものが。
塚田:それでそういうふうに見えてきた状態で、電車に乗り、窓越しにタイルを見ながら電車が動いていく感じの瞬間のあの感じ。このエピソートは辰野さんが『美術手帖』414号(1976年12月)に寄せたものなんですが、これが作品を制作する際のインスピレーションになっていたんじゃないかという解釈をされています。
大北:インスピレーションということは、そこからまた別物を? 今一瞬分かりかけましたがまだむずかしいな。

塚田:地下鉄が動くことによって、格子模様がふわって揺らぐじゃないですか。
大北:揺らぎますね。
塚田:揺らぐことによって「あれ、これ何なのかな?」っていう瞬間が訪れますよね。
大北:あー、存在や認識がゆらぐ瞬間ですね。
塚田:で、その「あれなんなんだろうな」っていう自分自身の生理的な反応っていうのは写真じゃ残しづらい部分なんですよ。
大北:あーたしかに。そういうものこそ絵で描くべきだと。
塚田:一瞬動いて「ふわっ」てなった瞬間のあのイメージってどうすれば絵にできるのかなって考えた結果、こうなる。
大北:へえー、おもしろい!
塚田:それが出来事を描くっていうことなんですね。
大北:ちょっと動いた時に物が実際にどういうものか、何で構成されてるのかとかがわかるってことですかね。
塚田:どちらかというとそれがわからなくなるような瞬間ですかね。だから今はたとえ話として「動き出す瞬間」の話をしましたが、物がなんだかよくわからなくなって、出来事に見えてくることが大事なんで、動いてる/動いてないに関わらず、そういった状態を絵画にすることにこだわっているんです。
大北:ほぁー。それを捉えるとこうなるんだ。

 

どちらにも見えてこその抽象絵画

塚田:だから辰野さんは「これを描きました」っていうのは言わないタイプの作家さんです。でもそれによって見る人を、出来事を考える方に仕向けてる。この絵も丸い物体がテーブルにいっぱい並んでるのか、積んであるのか、どっちかわからない。状況を説明しきらないことによってどっちにもとれるような出来事として完成させてる。それが抽象絵画のあり方の一つなんです。どのようにも見える感じをキープする。
大北:へえー、抽象絵画を作る上でのコツっていうのがあるんですね。
塚田:はい。もちろん、絶対それにのっとる必要もないんですけどね。
大北:それって具体性を帯びさせないってことでもあるのかな。テーブルの上にある桃っぽさから遠ざけておかないと抽象絵画は成立しないのかな。
塚田:いや、抽象絵画の中にもタイトルで何を描いているかをほのめかす作品もありますよ。そういう作品でも、研究や美術史においては抽象画として紹介されたりする。だから線引きは難しいんですが、そういう絵であったとしても「抽象性についての絵である」とは言えると思います。
大北:「出来事」とかも抽象性と言ってみればそうか、なるほど。

 

抽象絵画に優劣はあるのか?

大北:「これが辰野さんの作品です。さあ、みんなで鑑賞しよう」ってなった時は安心して鑑賞に取り組めるんですけど、例えばこれが新人作家だった場合ぼくはその自信がない。こういう抽象絵画ってたとえば賞に応募された作品とかどうやって優劣決めるんですか?
塚田:こういう抽象絵画の方向性であれば、フィギュアスケートみたいなもので、得点的に高いか低いかっていうのはけっこう判断はできますよ。
大北:よくできてるなとかもわかるんだ。
塚田:わかりますね。
大北:それは絵が精緻であるとかとは別のことですか。色が細かいなとかの。
塚田:そういう考え方でいくと抽象性を扱った絵画として辰野さんの絵はめちゃめちゃ精緻で秀逸で豊かです。筆触とか輪郭線の使い方とか。強い黒い輪郭線が入ってるところとそうじゃないところがありますよね。
大北:あー、ありますね。うん。

塚田:そういったディテールによって得点を稼げるところが抽象絵画にはいくつもあって、それが一つの画面の中で空間的な前後感の面白さに繋がっていると「なかなか点数は高いね」ってなります。
大北:へえー、空間的な前後感。
塚田:でもそれはもう現代においてはやり尽くされちゃってるんで、そこからって感じではあるんですけど。
大北:文脈をわかった上で次の一手が出せるか。

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「これだけ??」と思う美術の見方が分かりました / 連載「街中アート探訪記」Vol.13

  • #大北栄人・塚田優 #連載

 

抽象絵画は「手前か奥か」で見る

大北:例えば美術を志した学生とかが、鉄の質感を描くの面白いなとか思って、鉄の丸っこい物体ばっかりを描いてたりとかしたら。その出自自体は抽象絵画じゃなさそうですよね。
塚田:でも見え方としては抽象絵画になりそうですけどね。
大北:受け取り側としてはもう区別つかないのではないかっていう気もするんですよ。
塚田:違いが、ってことですよね。抽象絵画の数を見たりだとか、こういう風に話したりして理解を深めたりすると専門家が言ってることを理解することはできるんじゃないかとは思うんですけどね。
大北:なるほど。それはたしかに人生のやっときたいことリストの1つではありますよね。「抽象絵画の見方をわかっておく」。
塚田:まあここまでくだくだしく言っちゃいましたけど、抽象絵画を一言で説明すると「手前か奥か」を考えるだけなんですけどね
大北:……え? なんですかそれ。手前か奥か?
塚田:絵の中で、どれが手前で、どれが奥かを考えることから始めればいいんです。抽象絵画は。
大北:え、そうなんですか? 言い切っていいんですか?
塚田:はい。「そこから始めましょう」っていう意味では言い切ってもいい。ただ現実との対応関係を排除し、絶対的な抽象を志向したシュプレマティズム(※)なんかは違うので全てに当てはまるわけでもないんですけど。
*......20世紀初頭にロシアの美術家マレーヴィチが提唱した絵画様式。「絶対主義」を意味し、現実との関係を否定するために単純な幾何学形態を使用した。
大北:えー!? ええ!? 絶対的な抽象どころではなくて…そうなんですか。
塚田:そうです。でも繰り返しますがそれは最初の一歩で、そこから先の見どころもたくさんあるんですけどね。
大北:えっ、手前か奥かっていうのは、手前に来てるのはあの桃で、奥に来てるのはその間の影だなっていう風に見たりってことですか。
塚田:あ、そうです。
大北:球を描けば球の真ん中辺りは全部前に来てますよね……。
塚田:そうそう。そういうことを考えてればいいんですよ。

 

鑑賞が豊かになる「手前か奥か」

大北:……あ、でも確かに。確かに本当にあれが手前なのか?と疑っていくと……面白くなってきました。見方が豊かになって。
塚田:そうでしょ。
大北:あれ。これって球なのかな? そうじゃないとしたらどうなんだ!? ってなると、急激に面白くなってきますね……。
塚田:そうなんですよ。うんうん。非常に良いですね。
大北:え。うわ、マジでそうなのかな…。大発見じゃないですか。ええっ!?
塚田:僕も抽象絵画がわかんなかった19歳の時にこのことに気づいたんですが……確かに自分の中では大発見だと思いました(笑)。
大北:急に豊かになりますね、見方が。でも人の顔なのかツボなのかみたいな簡単な絵ありますよね。ルビンの壺か。ああいう感覚に近くないですか?
塚田:そうですね。でもあれの場合、人なのかツボなのかの他に味わうところって線ぐらいしかないじゃないですか。でも抽象絵画においては筆の跡とか絵の具の厚さとか色とか複合的な要素によってそれを考えることができる。
大北:ええ!?
塚田:これ自体は平らな絵。絵にしか過ぎないんですけど、そういう「なんで?どうして?」をたくさん感じさせてくれる抽象絵画は、さっきの話でいうと結構点数が稼げてる絵ですね。
大北:えー、すご。手前か奥か見とけば大丈夫ってのは明文化されてるんですか?
塚田:されてますよ。評論とかだと割と同じこと言ってても読者にとっては難しいなという印象になってしまうんでしょうね。文章に書くと「隣り合う色彩が画面全体に及ぼす効果がうんぬん…」みたいな感じになりますから。
大北:捉えにくい言葉に。となるとこの連載でダラダラ喋る意味も出てくるわけですが…。

 

「手前か奥か」を疑うことをまだまだ疑う

大北:いや、この方法で、ちょっともう一回抽象絵画を色々見ていきたいですね。前か後ろか。いやいやいや、ほんとにそれでいいのか……
塚田:大丈夫です。僕が保証します。
大北:「この映画にはこういうメッセージがあるはず」っていうのはちょっと貧しくなる見方だよねっていう考え方もありますよね。それと同じように「手前か奥か」に限定しちゃっていいのかな……。
塚田:あの、ほんとただの手前と奥なんです。ミニマルアートの時も話したじゃないですか。アートって当たり前のことをめちゃめちゃエッセンスとして抽出しちゃうから、逆にわかりにくくなっちゃってるんですけど、実は言ってることは「え、そんなことなの?」ぐらいな感じなんですよ。もちろんさっき話した通り、あくまでもそれは出発点のひとつで、ほかの観点はいくつもあって、その経験や文脈の総体として「作品」は存在しています。しかしそれでも、今日話してきた空間にまつわる話は絵画ならではのテーマなので大事にしたいところです。
大北:ミニマルアートは鑑賞者が変わる体験を味わわせるみたいなことですよね。あれもなるほどと思いましたが。
塚田:これもまた体験ですね。眼球と網膜の体験。
大北:でも、手前か奥かを考えようっていうのは3Dの浮き出る絵を見てるような感じになりませんか。
塚田:そうですね。
大北:目が面白いっていうか。そんなことに回収しちゃっていいんですかね。
塚田:3Dの場合はメガネだったり外部的なものによってそれがなされてるわけですよね。半ば強制的に出来事が起こる。でも絵の場合は生身の体で来てるわけですよね。でも手前と奥が感じられるって、それはそれで一つの人間の技術とか、知性の発揮のされ方として結構面白いことをやってるんじゃないかなって僕は思います。

大北:ビャーッってほとばしってる系の抽象絵画もあるじゃないですか。あれも同じこと言えるんですか? 手前か奥か問題。
塚田:ポロック(※ジャクソン・ポロック)は結構そういうの意識してますよ。見てると眩暈が起きるようなあの感じって、空間を意識しながら描かないとできないはずです。
大北:抽象絵画っていうものが生まれた時からすでに手前か奥かは言われてたんですか。
塚田:言われてますよ。抽象の大きな源泉として言われているポール・セザンヌっていう画家がいるんですけど、セザンヌは例えばリンゴならリンゴを真正面から見たところと、ちょっと斜め上から見たのと複数の視点からのイメージを1つの画面の中にまとめたんです。そうするとリンゴっていう物の位置がずれてくるわけですね。じゃあこのリンゴは一体どこにあるんだろう?という話になる。
大北:なるほど。すごい。大発見ですよね。
塚田:ははは(笑)

 

認識から逃げていく抽象絵画の楽しみ

塚田:これは篠田達美さんという批評家の方が言っていたことなんですが、辰野さんの作品の特徴として、ちょっと中心からずれていることが重要だっていってるんです。
大北:中心ですか。
塚田:たとえばこの作品も、丸っぽい形が並んでいますが、ちょっと中心からずれてるじゃないですか。
大北:たしかにちょっとなんか収まりが悪い。
塚田:それによって「丸」っていう記号とか象徴として単純に見れないようなものになっているんですね。
大北:ふーむ、なるほど。
塚田:なかなか納得できないかもしれないですが、あまり美術に詳しくない人でも「丸だなぁ」って思う前の逡巡だとか、逆に「丸だね」と言った後の余韻のなかでそう単純に言い切れない部分を感じてると思うんですよ。抽象絵画の楽しみはそこから。だから「丸だけどなぁ」って言った後どう感じるかが大事なんです。
大北:うおっ。それはなんかまたおもしろさが立ち上がってきますね。私達が物事をどうとらえるかから逃げ続けていく抽象絵画というものが。あーでもわからないってそういうことか。

左のコントの舞台を書く大北と右の美術評論を書く塚田の2人でお送りしました

塚田:実は僕自身、辰野さんに教わってたんですよ。
大北:あ、そうなんですか、塚田さんが美大生のときに?
塚田:大学4年生の時に、講評で2回作品を見てもらいました。僕の絵はそんなに興味を持ってもらえなかったですね。辰野先生の興味とは違っていましたし、そこまで良い作品も作れていませんでしたから。
大北:残念(笑)
塚田:でも颯爽としてて、かっこいい人でした。
大北:たしかに。かっこよさそうなイメージ。
塚田:辰野先生は僕が卒業して2年後に亡くなってしまったんですが、当たり前のことだけど作品は人間より長生きですから、こういうふうに残っているところを見に来れて個人的にも感慨があります。
大北:もうちょっと興味持ってくれてたら今日はもっと激賞になったのに、惜しかった…。

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DOORS

大北栄人

ユーモアの舞台"明日のアー"主宰 / ライター

デイリーポータルZをはじめおもしろ系記事を書くライターとして活動し、2015年よりコントの舞台明日のアーを主宰する。団体名の「明日の」は現在はパブリックアートでもある『明日の神話』から。監督した映像作品でしたまちコメディ大賞2017グランプリを受賞。塚田とはパブリックアートをめぐる記事で知り合う。

DOORS

塚田優

評論家

評論家。1988年生まれ。アニメーション、イラストレーション、美術の領域を中心に執筆活動等を行う。共著に『グラフィックデザイン・ブックガイド 文字・イメージ・思考の探究のために』(グラフィック社、2022)など。 写真 / 若林亮二

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