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2025.01.22

渋谷の壁に鎮座する森山大道のクジラから写真の歴史を読む / 連載「街中アート探訪記」Vol.36

Text / Shigeto Ohkita
Critic / Yutaka Tsukada

私たちの街にはアートがあふれている。駅の待ち合わせスポットとして、市役所の入り口に、パブリックアートと呼ばれる無料で誰もが見られる芸術作品が置かれている。
こうした作品を待ち合わせスポットにすることはあっても鑑賞したおぼえがない。美術館にある作品となんら違いはないはずなのに。一度正面から鑑賞して言葉にして味わってみたい。

今回訪れたのは渋谷の東京電力の壁にある森山大道の大きな写真である。パブリックアートとしては珍しい写真という表現から、なぜ森山が新しかったのか、そもそもアートとしての写真はどういうものなのかを考える。

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渋谷にある大きなクジラの写真

大北:ああ、これが森山大道さんの写真ですね。メインの繁華街ではないですが渋谷消防署の隣に。大きいけど知らなかったですね。
塚田:
渋谷は2000年に佐藤可士和がSMAPの広告でバスとか色々ジャックした時代もありましたね。
大北:
渋谷駅前交差点とかね、屋外広告が最も盛んな街ですから。こういった大きな写真も違和感がない。その分広告かなと思ってしまいますが、渋谷区の案内板があります。

『Untitled』森山大道 2024年 渋谷アロープロジェクト

大北:大きいしインパクトがありますよね。
塚田:
やっぱり黒みが森山大道作品の魅力なんですよね。
大北:森山大道、名前だけは聞いたことがあるんですが…死とかチベットみたいな本の人?
塚田:あ、それは写真家の藤原新也ですね。森山大道はむしろ新宿とかそういう繁華街が多いです。ただ旅人であるということは共通してます。いろんなところに行っている。
大北:ヴィレヴァンの写真コーナーで見たくらいの記憶しかなく混同してました。
塚田:
森山大道は1938年生まれでまだご存命で、60年代後半にデビューしたんです。日本において写真が表現として認められてきた歴史と並走してキャリアを歩んでいます。
大北:
黒みが特徴だと言われてみるとしっかりクジラが黒いですね。
塚田:
もちろん時代ごとの変化はある程度あるんですけど、森山は一貫してこういった作風なんですよね。この写真は1988年ですけど、今もこんな感じです。

大北:確かに昔の写真ってこんなコントラストの強い白黒のイメージがあります。

「アレ・ブレ・ボケ」が生まれた

大北:ずっとモノクロームフィルムなんですか?
塚田:
もちろんカラー作品もあるんですけれども、基本はモノクロで。森山大道自身は、「モノクローム写真の表す世界そのものが、すでに『異界』の光景」と言っています。
大北:
白黒で撮るということは別の世界だと提示することでもあるんですね。
塚田:
さっき黒みの話もしたんですけれども。この森山大道および60年代後半の中平卓馬や同世代の写真家の1つの特徴として語られているものに「アレ・ブレ・ボケ」というのがあるんですよ。
大北:荒れていて、ブレていて、ボケている写真ってことですか。
塚田:そういうのが新しい表現として特徴的だったんですね。それまでの写真を評価する基準って、対象の社会的なリアリズムが出ている作品がいいとされてたんです。それもくっきりと鮮明に。例えば土門拳が広島の写真を撮ったりとか、写真で社会の問題をくっきりと映し出す生々しい表現をやっていたわけですよね。
大北:戦場写真とか、状況がわかる写真ですね。

塚田:あるいは1つの説明図として、状況を説明するための写真という価値観もありました。でもそれらの価値が是とされる中で、画面も荒れているし、対象もボケているし、ピントもブレているという全く正反対の価値観を森山らは提示したわけですね。だからこそ新しい表現として60年代後半に脚光を浴びたわけです。
大北:全く逆なんだ。こんなの写真じゃないじゃんって感じだったわけですね。
塚田:
90年代ぐらいからスナップショットみたいな形で、写真がどんどん手軽に身近になってきましたよね。フィルムがデジタルになり、写真機というより携帯電話に内蔵されてどんどん身近になってる歴史がある。そうした中で、パッて撮ったみたいな、ピントもしっかり合っていなかったりするスナップ写真(特別なセッティングや構図を決めない即興的な写真)みたいなのって、現代の僕たちの感覚としたら当たり前ですけど、昔は非常に衝撃的だった。そんな表現を開拓した人なんですよね。
大北:
そうかー、「写真が上手い」っていう言葉が今も残っていますが、その時代のものなんでしょうね。報道写真みたいにピントが合って対象がくっきり写ったものが写真ですよと。なのに60年代後半に森山大道らが出てきた。映画界もその時代に新しい波があって、ビートルズとかこの前の高松次郎や赤瀬川原平もそうだし、みんな芸術で新しい波があった時代ですね。
塚田:
ヒッピーカルチャーもそうですし、いろんな価値観が揺れ動いた時代ですもんね。そうした中で日本の写真で何があったかっていうと、森山大道やその周辺ということになります。

パリで再び写真と出会い直した森山

大北:さあこの写真に向き合ってみると、街の風景にクジラがいます。コラージュ的なものですかね。
塚田:
いやこれは実際にあった風景でして、クジラは気球なんです。1988年のパリで撮られた写真ですね。
大北:
実際にあったんだ! パリの写真が渋谷に飾られているんだ。
塚田:
ええ、昔の作品から選んだんでしょう。写真内の建物を見るとパリの雰囲気はありますよね。シュールな光景ですけれども。森山大道はもちろん街の写真ばかり撮っているわけじゃないですが、やはり自分が歩き回って目にしたものを撮るっていうところで、都市の写真家でもあると思うんです。こうした「都市」の面白さを見せてくれるところがありますね。

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大北:気球かあ。よくできてますよね。形もリアルで。
塚田:
そうそう。キャラっぽくないのがちょっと西洋的だなと思います。日本人ってすぐ可愛らしくキャラ化するじゃないですか。でも例えば、海外のスポーツチームのキャラクターとかは、ちょっとリアル寄りだったりしますよね。
大北:
確かに。日本のキャラクターは可愛いですよね。
塚田:
そうなんですよ。日本は「可愛い」キャラクターにする技術が発達してる。
大北:じゃあパリらしいクジラなんだ(笑)。

塚田:今回この写真の背景について調べていて面白かったのは、森山がパリに行ったのは取材じゃなくて自分のギャラリーを開く場所探しだったそうです。『犬の記憶 終章』というエッセイ集にそのことが書いてありました。森山はパリの街中を描いた画家とかが好きだったんですね。佐伯祐三とかユトリロとか。
大北:画家の影響があるんですか?
塚田:
森山は10代の頃は油絵を描いてたんですよ。それでパリに自分のギャラリーを持とうと行ったけれど、現実的には言葉の問題もあるし、物件も借りたはいいがどうもしっくりこなかったようで、だんだん気持ちが萎えてしまったそうです。それでだんだん写真を撮る方が楽しくなってきてしまって。
大北:
ギャラリー運営に燃えてたけど写真に帰ってきた。
塚田:
多分、これはその頃に撮った写真なんじゃないかなと。そんなストーリーが裏側にはあります。
大北:失意の中パリで撮られた写真にしては、キャッチーな1枚ではないですか。街にこんな奇妙なものがあれば、誰でも撮りたくなる。大ネタというか。
塚田:エッセイを読むと「失望」という感じではなく、興味が移ってしまったということのようです。最近では現代アートのユニット「目[mé]」が空に大きな顔を浮かべる作品を発表して話題になりましたが、こういうのを見つけたら、誰でもついシャッターを切ってしまうでしょう。

写真とは何かを突き詰めるとファインダーは見なくていい

大北:このザラッとした質感がアレってやつですかね?
塚田:
そうですね。写真の粒子が粗くて、図像がブレたり、ピントがボケたりする。
大北:
これがアレ・ブレ・ボケ、なるほど。
塚田:
アレ・ブレ・ボケって言葉を覚えておくと、「写真知ってるね」みたいな感じになれます(笑)。まぁそれは冗談として、ひとつの写真についての見方としてインプットしておいて損はない。では森山がなぜアレ・ブレ・ボケにたどり着いたかというと、写真の自立的な価値を追求しているわけですよね。
大北:自立的な価値……?
塚田:写真そのものみたいなものはどうすれば表現できるのかなっていうところでもあります。
大北:確かに。写真というのは基本的に、何かを写し取るものですもんね。写真自体で独立した価値を持つというのはどうやったらいいのか、なるほど。
塚田:
森山はさっき紹介したリアリズムや図解ではない「写真そのもの」の価値を追求したんですよね。中平卓馬など森山の周囲の写真家も写真の自立性を追求してたのですが、森山の過激さは「主題」というものを徹底的に排除して、とにかくスナップを撮りまくる。「アレ・ブレ・ボケ」もいとわずシャッターを切っていく。そうやって写真表現を大きく刷新した作家なんですね。

大北:撮りまくるんだ!?
塚田:
例えば森山には「写真よさようなら」という名写真集がありますが、アレ・ブレ・ボケをやりすぎて抽象的なイメージも並んでいます。
大北:
ああ、アレ・ブレ・ボケって、確かに写真でしか表現できないものですね。
塚田:
ですね。他にも森山の特徴の一つとして、ファインダーを覗かずに撮影するというスタイルもあります。
大北:フィルム時代だからファインダー見ないと構図もわからない。見ずに撮るとカメラをまるで筆のように扱ってるみたいですね。油絵をやっていた森山だからこそなのかな。

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大北:なんでこの写真? と思いましたけど、「森山だよ、この黒みが森山なんだよ」と言われると、納得しますね。
塚田:
そうですね。でもその「黒みが森山」だイメージが定着した背景には、寺山修司との交流があるんです。寺山の「天井桟敷」の舞台写真、いわゆるアングラ演劇の写真を森山は撮影してるんです。
大北:
伝説的な演出家の。
塚田:
寺山修司は、プロデューサーとしても本当に優秀な人で、当時周りにいたいろんな人の才能をうまく引き出していました。
大北:あー、横尾忠則のポスターとかもそうですね。
塚田:宇野亞喜良もそうですね。寺山は自身の小説『あゝ、荒野』に森山の写真を使ったり、森山の写真集に詩をよせたりしてるんですね。
大北:なるほど、60年代の日本の芸術のイメージがその辺りでしたが、森山はまさにそこなんですね。
塚田:
ただ、一方で森山自身は、そういった「アングラ演劇の写真家」という見られ方に違和感を感じてもいました。むしろ寺山にプロデュースされたことへの反発からか、「写真よさようなら」という作品で、自分の表現を達成していて、この関係性もなかなか面白いですよね。

大北:「黒みが」というイメージがついてそこから一度反発したんですね。
塚田:
森山自身、「自分で写真集を作らなきゃダメだ」という考えに至ったという言及が今回事前に読んだ資料にはありました。
大北:
でも結局今「クジラが黒いな」「黒みが森山だ」みたいに言われてしまってもいるわけで。
塚田:
完全に反発するつもりだったら、カラー写真を撮り始めるんじゃないかと思うので、ある程度はそういう評価を受け入れていた部分もあったのではないでしょうか。
大北:そうですよね、やっぱり好きなんでしょうね。
塚田:寺山と共鳴する部分はあるけれどもっていうところだったんでしょうね

芸術が公的な役割を担う

大北:災害一時退避場所である明治神宮と代々木公園はこっちだよという案内が。
塚田:そうです、これは災害時に一時避難場所を知らせるシブヤアロープロジェクトで作られたものですね。渋谷区が東日本大震災の際に多くの帰宅困難者が出たことを受けて、そのような人たちを安全な一時避難場所に誘導する必要性を周知するために始めたんです。このプロジェクトの作品は、どれも矢印があしらわれているんです。
大北:矢印が描かれたりしてるわけですか。この場合はクジラの頭側?
塚田:公園は尻尾の方向なので逆ですよね。
大北:人間は頭の方を見ますもんね。
塚田:写真家の作品を反転させるのは難しいですからね。僕も今日ここに来て「あ、こっちなんだ」と意外でしたけど、人通りが多い場所なので効果はありそうですね。
大北:みんな「なんだろう、これ」って思うでしょうね。見た人が「ん?」って気づくきっかけにはなりそうです。さっき「くじらさんだよ」ってお母さんが子どもに言ってましたしね。
塚田:言ってましたね。そもそも写真がパブリックアートになってるって、あんまりないですよね。ただ最近は東京で「T3 PHOTO FESTIVAL TOKYO」っていうのを毎年やってるんですよ。公共空間を巻き込んだプログラムや展示を含む内容で。芸術祭として、写真をどう公共的な空間に配置するか、という取り組みがされています。
大北:へえ、なるほど。でもパブリックアートとして写真があるってあんまり見ないですね。

写真は多様であるからこそおもしろい

大北:そもそも抽象的なパブリックアートの見方がわからないと出発した連載ですが、写真の見方もよくわからないんですよね。解説本を読んで「こうこうこうだから良いんだ」と言われてもちょっとぼんやりしてまして。自分で「これが良い写真だ」と判断しにくい。
塚田:
なるほど。まず写真が分かりづらい理由の一つとして、「表現としての写真」なのか「報道的な要素としての写真」なのかっていうのがありますよね。
大北:
確かに。評価するにしてもその2つの軸はありそうですね。
塚田:
それも「?」の一つですし、あとは写真家が撮った写真と普通の人が撮った写真が混在してる問題もあります。現代ではむしろ普通の人が撮った写真の方が圧倒的に多い。
大北:僕は写真家の方が撮った芸術的な写真を知りたいと思ったんですが、それでも「この写真がすごいな」っていうのはパッとわかりにくい。
塚田:例えば、ロバート・キャパっていう戦場カメラマンがいて、兵士が倒れた瞬間の写真「崩れ落ちる兵士」が有名ですけど、あれも報道写真なんですよね。でもややこしいのは、後世「演出があった」ことが明らかになるんです。

大北:あ、じゃあ報道じゃなくて芸術だってなってくるのか。
塚田:
そうなんですよ。写真って重心の置き方で見え方が全然変わるんです。 でも、それが写真の面白さでもあるし、逆にとっつきづらいポイントでもある。写真は定義しきれない部分があるけど、その分いろんな見方ができるってことですね。
大北:
こうやって見ろっていうのがたくさんある世界なんですね。
塚田:
はい。だから写真の批評や評論をやってる人たちもたくさんいますし。
大北:じゃあ、これが正解みたいなのは特にないんですか。
塚田:もちろん大まかに共有されてることも多いですが、細かく煮詰めていくとそれぞれの立場から価値判断が下されているという感じです。ただ写真はイメージとしての提示が必ずあるので、直感的に「この写真好きだな」というところから入って、その解説から入るでいいと思います。
大北:個性が強い作風の人だと一見して分かることもありますよね。例えば蜷川実花の鮮やかな色彩とか、森山大道の黒っぽいトーンとか。森山の作品もたくさん見たらまた印象が変わりそうですけど、これだけでも認識が生まれました。森山の黒がドーンとある。
塚田:
そうですね。本当に2025年現在を撮ってもやっぱり「森山大道」なんですよ。コンスタントに写真集が出てますし、美術館やギャラリーで取り上げられることも多い。他の作品もぜひ見てほしいですね。

大北:そうか、2050年の蜷川実花さんが鮮やかな花の写真を撮ってるみたいな感じですね。60年代の写真をイメージしてるのはまさにこの森山大道なんだろうなあ。

ユーモアの舞台を作る大北(左)と美術評論の塚田(右)でお送りしました

machinaka-art

DOORS

大北栄人

ユーモアの舞台"明日のアー"主宰 / ライター

デイリーポータルZをはじめおもしろ系記事を書くライターとして活動し、2015年よりコントの舞台明日のアーを主宰する。団体名の「明日の」は現在はパブリックアートでもある『明日の神話』から。監督した映像作品でしたまちコメディ大賞2017グランプリを受賞。塚田とはパブリックアートをめぐる記事で知り合う。

DOORS

塚田優

評論家

評論家。1988年生まれ。アニメーション、イラストレーション、美術の領域を中心に執筆活動等を行う。共著に『グラフィックデザイン・ブックガイド 文字・イメージ・思考の探究のために』(グラフィック社、2022)など。 写真 / 若林亮二

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