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INTERVIEW
2025.10.29
「未知」が立ち上がる瞬間を求めて──アーティスト・山内祥太が目指す思考を越えた景色
Photo / Masashi Ura
Edit / Eisuke Onda
テクノロジーと身体が折り重なりながら、複雑な社会や人間の感情の先を模索するアーティスト・山内祥太。 新作《Being... Us?》で彼が表現した、未来の景色はユートピアなのか、それともディストピアなのか――。
《Being... Us?》は、アーツ前橋で開催中のグループ展「ゴースト 見えないものが見えるとき」(会期:2025年9月20日~12月21日)で発表され、その続きとなる作品がLadder Projectの支援を受け、Art Collaboration Kyotoでも展示される予定だ。 今回、その展示会場で、山内が新作を通して見つめようとしているものについて話を聞いた。
山内祥太
デジタル技術を応用して現実と仮想空間を行き来する作品を制作するアーティスト。表現するメディアは映像、彫刻、インスタレーション、パフォーマンスなどさまざま。テクノロジーを使いながらも、生々しさや人間らしい感情、矛盾する気持ちや状況といった複雑さを表現にも試みている。

山内祥太《舞姫》2021年 photo : Tatsuyuki Tayama 提供:TERRADA ART AWARD
未知なるもの、異形なものを呼び起こせないか

──現在山内さんはアーツ前橋で開催されているグループ展「ゴースト 見えないものが見えるとき」に参加されています。展示されている新作《Being... Us?》はどのような考えで制作されたのでしょうか?
自分にとっての制作は、常に「未知との出会い」をめぐる行為なんです。振り返ってみると、作品が生まれる瞬間というのは、いつも自分の理解を超えたもの、つまり未知なるものが現れるときなんですね。たとえば《舞姫》(2021)に登場する肌色のゴリラのような存在も、制作を進める中でふと現れたものでした。そのときはもちろん、それが何を意味しているのか分かりませんでしたし、今になっても明確には説明できません。けれど、そうした「意味からこぼれ落ちる」ような存在、あるいは「意味を拒む未知なるもの」にこそ、自分は惹かれてきた気がします。おそらく、自分の制作はずっと、そうした未知なるものと出会い続けるための試みなんです。 今回のアーツ前橋での新作でも、そうした「未知なるもの」や「異形のもの」を、展示の中でどのように立ち上げられるかを探りながら制作を進めました。

今回の展覧会に参加するにあたって、キュレーターの南條さんから「未来のゴースト」というテーマで制作してほしいという依頼をいただきました。最初にその言葉を受け取ったとき、どこか矛盾を感じました。ゴーストとは本来、過去の記憶や存在の残響であり、未来に現れるというのは奇妙な感覚です。けれど、その“奇妙さ”のなかにこそ、まだ言葉にならない何かが潜んでいるように思えました。そこから、僕の関心は「存在するもの」よりも、「まだ形を持たない気配」へと向かっていきました。見えないもの、名づけられないもの、そうした未知なるものがどのように世界に立ち現れるのか。それを探ることが、今回の制作の出発点となりました。
制作のはじまりは、プログラマーや照明家との対話からでした。「存在とは何か」そして「私たちの言語の外側で、何かと交わることはできるのか」。そうした問いを手がかりに、光や音、アルゴリズムが生み出す非言語的で不安定な領域を探っていきました。その制作過程で、意図や思考を越えた何かが、時空をわずかに歪めながら介入してくる瞬間がありました。それは僕にとって、“未知”との遭遇であると同時に、いまここにある「私たち」と「彼ら」の境界が、ゆるやかに溶けていくような気配を帯びていました。

──《Being... Us?》はモノリスを思わせる巨大なモニターに映像が流れています。山内さんは「未来のゴースト」というテーマに対して、テクノロジーによって応答を試みられたのでしょうか。
本作《Being... Us?》は、複数の照明器具と、モノリス状に組まれた大型LEDパネル、遺跡や風化を思わせる砂丘のような構造物、そして空間内に配置された様々なオブジェクトによって構成されています。モノリスはアーツ前橋の1階と地下展示空間をつなぐ吹き抜けを貫くように立ち上がっており、観る位置によって画面全体を把握しづらい、断片的な視覚体験をつくり出しています。この空間には、複数の意識や思念のような“未知なる存在”=彼らが漂っています。観る人は、照明器具やLEDパネルから放たれる光や映像を知覚することで、その不確かな気配や、存在のゆらぎを感じ取ることができます。
このコンセプトを実行するにあたり、言語に特化した大規模言語モデル(LLM)、そして動画生成AIを用いて制作を行いました。AIは、私にとっていまだ解き明かされない領域であり、発展を続けるブラックボックスあるいはパンドラの箱のような存在です。その不可視のプロセスの奥から、ときに思いがけない“他者”の声やイメージが立ち上がってくるように感じます。この不可解な箱の中には、いったい何が潜んでいるのだろう。その“未知”を、そのまま空間の中に存在させることはできないだろうかと考えました。それは、私たち人間が普段用いている言語体系や感受性、そして時間の把握とはまったく異なる次元に生きる存在なのではないかと想像しながら、制作を進めました。

プログラマーの曽根光揮さんが制作しているときのワークフローの一部
AIを含む、私たちが日常的に目にしたり感じているテクノロジーというのは、たとえばパソコンの画面ひとつを取っても、その向こう側には不可視のまま膨大な情報が広がっており、私たちが実際に視認できているのは、そのほんの一部にすぎません。その膨大な情報は、人によっては巨大な構造物のように感じられるかもしれませんし、あるいは複雑に絡み合う網のようなものとして感じられるかもしれません。そもそも、何も感じないという人もいるでしょう。
そうした現状を踏まえると、私たちが「ゴースト」と呼んでいるものと、このテクノロジーのあり方はとても近しいもののように思えてなりません。本作では、そうした考えのもとに、あえて最小限のヒントだけをAIに与え、対話や身振りを生成してもらうような形を取りました。また、イメージを生成する際にも、言語で縛らず、「自由に考えてください」というお題を出しながら、AIとの関係を探るようにして制作を進めました。私たちが完全にコントロールしてしまう、あるいはコントロールできていると錯覚してしまわないように、むしろ予測できない、制御しきれない要素(アンコントローラブルな領域)を受け入れることで、そこに“他者”や“未知なるもの”が立ち現れる可能性を探りました。

photo by Shinya Kigure
この存在は......私たちかもしれない?

──今回のインスタレーションは、人類の絶滅以後に交わされる未知なる存在同士のコミュニケーションがモチーフになっているとうかがいました。
はい。その通りです。ただ、私が想像する“絶滅以後”というのは、災害や紛争、ウイルス感染といった現実的な要因によって人類が滅びるという、SF的なシナリオを描いたものではありません。むしろ、私たちの姿がもし次の瞬間にふっと消えてしまったら——という想像から生まれた、身体の絶滅という仮定(If)の世界です。それは、あり得ない世界だと否定する人もいるかもしれません。けれど、仮に「私たちの未来はどうなるのか?」という問いを立てたとき、現実に起こっている災害や紛争、環境汚染の延長として人類の衰退や滅亡を想定するだけでは、議論がどこか硬直してしまうように思うのです。漠然と悪くなっていく世界を前に、私たちはただ嘆くことしかできない。 そこに残るのは、どこかニヒルな思考だけのように思えてしまう。
そして、その議論が過熱することで、人間の存在そのものを否定したり、私たちの活動や芸術的な行為に矛盾を抱え込ませてしまう危うさも感じています。そこには、想像力が介入する余地がほとんど残されていないようにも思うのです。だからこそ、もし私が「未来のゴースト」というテーマを与えられ、その“未来”に対して何かを投げかけるとするなら、もっと別の角度から問いを開いてみたいと思いました。そして、その問いは《Being... Us?》というタイトルへと帰結していきます。私がこの作品で扱おうとしている“未知なる存在”とは、もしかすると、身体を失ったあとの私たち自身の姿なのではないかと。

モノリスに映し出される映像の一部
身体を失った結果、思念だけがこの世界に残り、“言葉による会話”という手段は失われた。けれど、光を介して交わされる彼らのやり取りには、どこか人間であった頃の会話ならではの“間”や、対話の呼吸のようなものが見え隠れします。そして、その光の往復の中に、ときおり何かのイメージを導き出すような、人間的な営みの残像がこのインスタレーションには現れています。
──未知なる存在同士の会話を光と映像という全く違う表現で行うというアイデアが面白いです。どういったことからインスピレーションを受けたのでしょうか?
『未知との遭遇』(1977)や『メッセージ』(2016)といったSF映画から着想を得ました。特に、『メッセージ』の原作者であるテッド・チャンが言及しているサピア=ウォーフ仮説に強く興味を持ちました。この仮説では、「私たちが使用する言語が、思考や世界の認識の仕方そのものを規定している」とされています。つまり、人間が“言葉”という枠組みを介してしか世界を理解できないとすれば、異なる言語体系を持つ存在は、根本的に異なる世界像を生きていることになる。そう考えたときに、言語を失った存在同士の対話はどのように成立しうるのか——という問いが自然と生まれてきました。『メッセージ』では、それが地球外の知性との出会いとして描かれています。
異なる時間軸を生きる彼らの存在は、私たちの“言語”や“時間”の捉え方が、どれほど人間的な枠の中にあるかを気づかせてくれました。そして、言葉が思考を変え、さらには“世界の見え方”そのものを変容させうることを示唆しています。


—―大型LEDパネルの周囲の砂や人形を思わせる造形など、他の要素も印象的です。
砂の造形は、退廃的なイメージや、時間の経過を強く印象づけるために用いました。ただ、今回この砂の造形物を制作するなかで気づいたのは、造形が私たちの身体よりも大きくなったことで、砂を盛ったり形を整えたりするためには、どうしてもその上に上がる必要があったということです。そのときに残る足跡が、まるでそこに“何かが存在していた”ことを示す手がかりのように思えてきました。当初は単なる造形要素として考えていた砂が、次第に存在の痕跡や記憶を象徴するものへと変化していったのです。 そして展示が始まると、そこには観客たちの足跡も刻まれ、存在の形跡が絶えず更新されていきました。それもまた、《Being... Us?》というタイトルと響き合う結果となったのです。

また、空間の奥には人間のような造形物が鎮座しています。この作品は、2022年に発表した彫刻作品《Tina》を再構成したものです。《Tina》は、上半身から下半身にかけて徐々に退化していくような姿をしています。まるで身体がどろりと地面に溶け出し、皮膚というよりも木のように硬化した質感を帯びています。
一方で、頭部だけは若さを保ち続け、その表情には苦悩というよりも、現状を静かに受け入れているような穏やかさが見られます。「立つことをやめた人類」をモチーフに制作しましたが、その着想のきっかけとなったのは、同じく本展に参加されている諸星大二郎さんの短編《生物都市》でした。この作品では、人間と金属が融合し、やがてすべてがひとつの意識として溶け合っていく未来が描かれています。そこからインスピレーションを受け、人間の形を保ちながらも、ゆるやかに別の存在へと変わっていく身体というモチーフを立ち上げました。

photo by Shinya Kigure
「未知との遭遇」の今後

──《Being... Us?》は11月に開催されるArt Collaboration Kyoto(ACK)でLadder Projectの一環として同作の別バージョンを発表されると聞きました。どのような展示になる予定なのでしょうか?
ACKの会場は、アーツ前橋での展示空間とは異なり、半屋外のピロティでの発表を予定しています。《Being... Us?》の大枠の構成要素は引き継ぎながらも、ACKの建築構造に呼応するかたちで、「新たな“存在の現れ方”」を探ろうとしています。会場となる国立京都国際会館のピロティは、無機質なコンクリート構造で、片側には黒い柱が一定のリズムで連なっています。その空間に、複数のLEDバーライトを設置し、建築の構造に寄生するように存在する光の装置を構想しています。また、過去・現在・未来がひとつの身体の中で混ざり合う新作のオブジェも制作しており、新たな空間で光と呼応するような作品として構想しています。
—―最後に、今後の展開についても聞かせてください。
今年は、シビック・クリエイティブ・ベース東京 [CCBT]のアーティスト・フェローとして、活動のサポートを受けています。このプロジェクトで構想しているのは、都市の中にある公園を舞台に、「新たな自然」について考えることです。ここでいう「新たな自然」とは、ティモシー・モートンが提唱する「ダーク・エコロジー」の考え方にも通じています。 つまり、21世紀以後のエコロジーにおいて、自然はもはや「人間の外側にあるもの」ではなく、 私たち自身のテクノロジーや都市生活の中に人工的に生成されていく存在として捉え直す必要があるのではないかという視点です。このプロジェクトでは、都市における自然の再構築、あるいは人工と有機が溶け合う新しい生態系をテーマに、映像や光、環境音を用いたインスタレーションを構想しています。《Being... Us?》のスケールを拡張し、屋外での実践として展開するようなプロジェクトにしたいと考えています。
Information
Art Collaboration Kyoto(ACK) Special Program
「山内祥太:supported by Daimaru Matsuzakaya Ladder Project」
■会場
Art Collaboration Kyoto (国立京都国際会館)
■日時
2025年11月14日(金)・15日(土) 12:00~19:00、16日(日) 11:00~17:00
※最終入場は閉場の1時間前まで
※内覧会11月13日(木) は招待者と報道関係者のみ
※入場料は Art Collaboration Kyotoに準ずる
ARTIST

山内祥太
アーティスト
1992年生まれ。東京藝術大学映像研究科メディア映像専攻修了。主な展示歴に「匂いのモニュメント 忘れ去られたエロス」山口情報芸術センター[YCAM](山口、2024)「MAMプロジェクト030×MAMデジタル:山内祥太」森美術館(東京、2022)「アルスエレクトロニカ・フェスティバル 2022」ヨハネスケプラー大学(リンツ、2022)など。 主な受賞歴に「Terrada Art Award 2021」にて金島隆弘賞&オーディエンス賞受賞。第25回文化庁メディア芸術祭アート部門優秀賞。
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