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2026.08.19

0と1のあいだを、ぐるぐる歩いているのかもしれない。井上七海のアトリエ / 連載「部屋は語る〜作家のアトリエビジット〜」Vol.8

Photo / Shin Hamada
Edit & Text / Eisuke Onda

制作途中の作品や散らばった画材、机や棚から、その作家の個性が滲む。アトリエに訪れると、作品の奥にある思考の一端を垣間見ることができる。連載「部屋は語る〜作家のアトリエビジット〜」では、現代作家たちの創作空間を紹介していく。

第8回は「線を引く」という行為を繰り返しながら、特定のイメージに回収されない絵画のあり方を探るアーティスト・井上七海のアトリエを訪れた。

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前回は中井波花のアトリエに訪問!

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インダストリアルな空間で、陶芸の可能性を探る。中井波花のアトリエ / 連載「部屋は語る〜作家のアトリエビジット〜」Vol.7

  • #中井波花 #連載

線ではなく、点かもしれない

「トンッ、スーーーー、トンッ」
「トンッ、スーーーー、トンッ」

名古屋の共同アトリエを訪れたこの日、たまたま他の作家の姿はなかった。静かな空間で、インクを含ませたペンが画面の上を走る。ペン先から打たれた点は、小気味よい音を響かせながら滲み、一筋の線へと変わっていく。いや、もしかしたら線ではなく、無数の点の集まりなのかもしれない。

ペンを握るのは、アーティスト・井上七海さん。制作していたシリーズ『スフ』は、一見すると方眼紙のようにも見える。だが本人は、それらを「何か」と決めることをあまり望んでいない。

「もちろん『方眼紙』『グリッド』とか好きに呼んでもらって構いません。でも私としては、たとえばリンゴを描くとリンゴって決まっちゃうのが嫌なんです。リンゴかもしれないし、家かもしれない。そういう決定しない状態に興味があります」

アトリエを案内してもらいながら、日常の中で生まれる着想と「決めない」ことを大切にする制作について話を伺った。

八軒目の作家
井上七海

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1996年愛知県生まれ。2019年名古屋芸術大学美術学部美術学科洋画2コース卒業。2021年京都芸術大学大学院修士課程美術工芸領域油画分野修了。現在は愛知県を拠点に活動。グリッドやビーズ、刺繍など素材との対話を重ねながら、「線を引く」という反復行為を通じて、イメージを一つに決定しない絵画のあり方を探究している。

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《スフ_27(i) / SUHU_27(i)》(2025)Acrylic and gesso on cotton fabric over panel 728×1030mm Photo by Osamu Sakamoto, Courtesy of Artist and KOTARO NUKAGA

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《Rim(r)》(2025)Beads, nylon thread, linen 333×333mm Photo by Osamu Sakamoto, Courtesy of Artist and KOTARO NUKAGA

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日常がきっかけかもしれない

大きな倉庫の中にある井上さんの制作スペース。整然とした空間には窓から自然光が差し込み、壁には自身の作品や友人の作家の作品が並ぶ。画材や素材、読みかけの本、制作途中の作品なども置かれていた。ここを使い始めて6年目になるという。

「地元にある名古屋芸大を卒業した後に、京都造形(現:京都芸術大学)の大学院に進学して、修了するタイミングでコロナ禍に突入しました。生活も不安だったので、もう戻ったほうがいいかなと。そんな時、この場所のことを思い出して、たまたま空きがあったので入りました。広くて、他のメンバーも清潔に使っているので使い勝手はいいですね」

作品の着想は、まず素材に触れるところから始まる。

「新しく作品を作ってみようと思う時は、素材ありきで進めたりしますね。その素材に対してどうアプローチしようかと考えて、触ってみて。そうすると、ほとんど失敗作みたいなのができるんですけど、そうしたらまた日常に戻ります」

日常の何気ない出来事が、再び制作へ向かうきっかけになることも多い。

「散歩やドライブ、お風呂に入っている時とか、些細なことに気づく瞬間があるんです。本当に言葉にするほどでもないことに気づく瞬間ってないですか? 人が歩いているなとか、そういえば私、呼吸してたなとか。そういう瞬間に、また作ってみようかなと思う。他にもいろいろな人と喋ったり、本を読んだりして、そういえば!ってなった時に素材の見え方が変わって、また手を動かします」

机の上には、今まで読んで印象に残った本が積まれていた。

「小説や詩、数学や哲学、ジェンダーの本とか、自分が読んで印象に残った本です。ジョルジュ・ペレックの『さまざまな空間』は、本当になんでもない日常を事細かに描写していて面白いなと思いました。

あと、メルヴィルの『書記バートルビー』はすごく印象に残っていて。『そうしない方がいいと思います』という言葉を繰り返して仕事を辞め、最後には食べることもしないで死んでいく人の話です。もちろん死にたくはないですが、私もあえてしない方がいいって絵を描いていて考えることもあるので、『しない』ことが題材になっているところが印象に残っています」

古本屋で購入したという詩人・村野四郎の詩集を開く井上さん。「物理の本を読んでいた時に出会った『青春の魚』という詩も素晴らしくて、とても気に入っています」

 

遊びから始まるのかもしれない

アトリエの机の下には、色とりどりの糸が収められていた。シリーズ『表と裏のためのドローイング』で使われているものだという。糸を選んだきっかけは、コロナ禍だった。

「外にも出られない時に、小さな自宅でできることってなんだろうと考えたら、糸だと閃いたんです。汚れないし、部屋も散らからないし。実は母が手芸好きで、服を作る姿を見て育ったので、糸は昔から身近な素材でした。私も幼い頃に少しやっていたので、まずはA4くらいのサイズで始めました。糸を縫うことで紙の表と裏を行き来する感覚が面白くて。線遊びをするような感覚で作品を作り始めました」

「その次はビーズにも着目しました。数学の集合論では『点が集まって線になる』という捉え方がありますが、それを物質でやってみたいと思ったんです。3次元のビーズで線を描けたら面白そうだなと思って。最近でもビーズを触りながら、『他に何かできないかな』と考えたりしています」

そうして生まれたシリーズ『Rim』では、ビーズが連なり、ぐるぐると回る線がキャンバスの側面まで続いていく。点の集まりにも見えれば、一筋の線にも見える

 

真剣になり過ぎないのかもしれない

現在、井上さんが取り組んでいるのは、代表作『スフ』。作品をよく見ると、下地はうっすらと灰色を帯びている。パネルに色を加えたジェッソを塗り重ね、その上から線を描いていく。

「この下地を作る作業が結構時間かかるんですよ。乾燥も入れると1週間以上かかります。その上から線を描くのは、今では、小さいものであれば1日で完成します」

線は漫画などで使われる丸ペンにリキッドインクを付けて描く。自ら調合しているインクの場合は、微細な色彩の揺らぎが生まれることも

このシリーズが生まれたのは、大学院時代に遡る。

「絵画ってイメージを、絵の具っていう物質を使って描くじゃないですか。それがなくて、なおかつ素材感が前面に出ずに成立できないかって考えていました。あと、細い線が描ける尖ったもので何かを描けないかとも試行錯誤していて、手を動かしながら切り詰めていった先に、今の方法が生まれました。

思い返すと、当時は何かを決めないことを考えていた気がします。たとえば『リンゴ』を描いたら、それはもうリンゴって決まっちゃうじゃないですか。でも、もしかしたら家かもしれない。一つの意味に決めないことをずっと考えていた気がしますね」

描いている間、アトリエにはペン先が画面を擦る音だけが響く。

「よく作品を見てくれた人から『細かい作業で苦行みたいだ』って言われるんですけど、そんなことはなくて、できるからやっている感じです。描いているときは、絵の具の質感を感じながら描いています。滲み方とか、線の切れ方とか、自分の引き方もその時々で全然違うんです。今回はこういう風になるんだなって(笑)」

 

0の周りをぐるぐる回っているのかもしれない

アトリエの壁に飾ってあったのは、最初の頃に描いた『スフ』。滲んだ箇所も多く、現在の作品と比べると、線の変化がうかがえる。

「もちろん最初に比べたら線は上手くなっていると思います。でも、それ以上に上手くなろうとして道具に頼ったりはしません。真剣になり過ぎない。完全に綺麗にやろうと思ったら機械みたいに作れると思うんですけど、それはやらないように意識していますね。一回、『もうちょっと突き詰めないの?』って言われたことがあって。それは手法のことだと思うんですけど、私はしないって選択をとっているんだなって」

最近制作したという菱形に線を引いた作品では、以前は設けていた枠線をあえて外した。描き進めるほどに、線にはわずかなズレが生まれる。

「素材と一対一で向き合って描いていくと、主観が消える瞬間があるんです。すごく客観的になっていくというか。でも主観的ではありたいんです。私の場合、客観的になると、作品を作らなくてもいいかもしれないって思えてくる。でも、物を作りたいっていう主観はあるから、すごく矛盾していて......。

でも、日本的といえばそうかもしれないですが、結論が先に来ないような考え方で作れないかなと思っています。客観的になると、そのもの自体が必要なくなる感じ。でも私はモノを作りたいから、あえて矛盾を残すかたちで制作しています」

そうして描かれた、方眼紙のようでもあり、グリッドにも見えるこの絵画。そもそもなぜ『スフ』なのだろうか?

「今ではレーヨンと呼ばれているステープルファイバーを、昔の日本人は『スフ』と呼んでいたらしいです。今はあまり使われない、昔の略称であることと、人工物であることにも惹かれました。人工物とか偽物とか好きなんですよ。だって、絵画って人工的だし、偽物だと思うんです。どうやっても表現したいものがあっても、それには近づけない。人間と物質である以上、思い描いたものが0だとしたら、それは描けない。0.0000001みたいに近づくことはできるけど、隔たりがある。でも届かないからこそ、頑張ってアプローチする。その希求する感じが好きなんです。

制作って何もないかもしれないと思いながらも、その0の周りをぐるぐる回っている感じなのかもしれませんね。でも、何もないと思うところにたまに感触を感じられる瞬間がある気がします。それが嬉しいです」

滲んだ線には、さまざまな思考の断片が宿っているのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

Information

アートフェア「Tokyo Gendai」


■会期
2026年9月11日 (金) ~9月13日 (日)
※ヴェルニサージュ:2026年9月10日 (木)

■場所
パシフィコ横浜 展示ホールC/D
神奈川県横浜市西区みなとみらい1-1-1
 
■入場料  
一般 前売 4,000円 / 通常 5,000円
ヴェルニサージュ 30,000円
大学生 1,500円
中高生/障がいのある方 1,000円

※前売りは8月23日(日)まで発売中
※小学生以下のお子様は無料
※すべて税込
 

詳細はこちら

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ARTIST

井上七海

アーティスト

「線を引く」という単一行為の反復によって「何かを描く」というイメージの制約から絵画を解放させることを試みる井上は、インクとペン、糸、ビーズと素材を替え、そのつど異なる「線」の現れと、一つの意味に決定されない絵画のあり方を探究してきた。丸ペンとインクで線を引き重ねる〈SUHU〉、糸がトレーシングペーパーの表と裏を貫きながら描かれる〈表と裏のためのドローイング〉、ビーズを連ねて支持体の側面まで線を延ばす〈Rim〉。素材は替わっても行為はひとつであり、井上が試みているのは、何かを一つに決定することではなく、複数の力が同等に存在する状態を画面に保ちつづけることだ。表のために裏が捨てられることはなく、線のために点が均されることもない。いくつもの視点が同時に正しくありうる。描かれているのは対象ではなく、そのすべてを等しく肯定するという態度そのものである。

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