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2022.06.24

【後編】インスタレーションの中にも話芸あり? / 連載「作家のB面」Vol.3 大岩雄典

Text / Yutaka Tsukada
Photo / Shin Hamada
Illustration / Shigo_kun
Edit / Eisuke Onda

アーティストたちが作品制作において、影響を受けてきたものは? 作家たちのB面を掘り下げることで、さらに深く作品を理解し、愛することができるかもしれない。 連載「作家のB面」ではアーティストたちが指定したお気に入りの場所で、彼らが愛する人物や学問、エンターテイメントなどから、一つのテーマについて話してもらいます。

第3回目に登場するのは美術家の大岩雄典さん。前編では、さまざまなエンターテイメント作品における「話芸」の考察。「話芸」を突き詰めると、根本的には発話者と受け手のコミュニケーションのあり方となるーーそのような話芸のあり方はインスタレーション作品にどのように繋がるのか? 後編では大岩さんの芸術論を展開していきます。

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大岩雄典と話芸、前半はこちらから。

大岩雄典と話芸、前半はこちらから。

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【前編】映画『パルプ・フィクション』の話芸から学ぶ“アートと語り” / 連載「作家のB面」Vol.3 大岩雄典

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「話芸」を作品に落とし込む

――前編では「話芸」の観客とのコミュニケーションの面白さと可能性を語っていただきました。大岩さんは話芸を分析した上で、作家として観客にどのように語りかけるかについては考えてらっしゃいますか? それに関して具体的な例をあげながら教えてもらってもよろしいでしょうか?

僕はこれまで空間に物を配置したり、映像を組み合わせたりするインスタレーション作品を多く発表してきました。そこからひとつの転機になったのは2020年です。前編で話した電話展示や、個展「バカンス」で漫才を作ったのをきっかけに、観られるものだけでなく、それに、観る側の行為や想像が伴う関係を重視しはじめました。壁は、人を立ち止まらせるだけでなく、物音が聞こえたり、囲って住みわけたり、賃貸されたりする。ものがひきずるそういう関係を扱わざるをえなくなるのが空間芸術だと。

なのでその翌年は、展示室を舞台セットのように構成するというアプローチから離れ、会場使用の賃借関係をモチーフにしたり(『margin reception』)、知識や行為に感じてしまう「予感」にフォーカスしたり(『悪寒』)、より広いニュアンスで、人にとって「空間的」とは何かを考えてきました。

その延長にあるのが、今年の2月に「時間・人数・対象年齢」という展示で発表した、『刑吏たち伴奏たち』(2022)というタイトルの「カードゲーム」です。インスタレーションでは空間の中をお客さんが歩き回ったり眺めたりできるけれど、カードゲームは歩けない。でもカードを出したり引いたり、裏返したり渡したりできる。その選択肢の可能性は、ある種の法則にのっとった、数理的な空間として捉えることもできますよね。可能性や、可能性同士の関係を作るという意味では、物理だろうとルールだろうと僕は空間だと思うんです。インスタレーションは物理法則のなかで作るし、カードゲームは山札や手札といった理念がその法則にあたる。

大岩さんのカードゲーム『刑吏たち伴奏たち』。このゲームは唱えるカードによってその都度、ルールが変化する。ルールによっては何時間も終わらない可能性もあり、そのルールによってゲームを終わらせるためにプレイヤーたちが協働する場面も生まれる。撮影 / 湯田冴

――発表活動のほかに、大岩さんはトークインベントも企画されてます。ご自身の展示にひもづいていたり、そうではなかったり形式は様々ですが、こういった場もまた話芸的なコンテンツとも考えられます。これらはどのようなモチベーションで取り組まれているのですか?

大きく2つに分けられます。ひとつはゲストを呼んで行うものと、もうひとつは自分がメインで話すものです。ゲストを呼ぶ方は、自分も司会に徹してますしシンポジウム的かもしれませんね。他方、僕がレクチャーする場合はパフォーマティブな側面が生じてきます。前編でも話したとおり、ひとりのモノローグという形の「自然さ」に疑問符をつけたい。例えば、あるイベントで僕は客入りの時からしゃべっていました。その会場は2階だったので、お客さんは階段を上ってくる。それに対して僕は「階段落ち」で有名な映画『蒲田行進曲』(1982)の話をずっとしていたんです。あれ自体、演劇の演劇、話の話。そういうふうにひと悶着作るのが大事というか、そのほうが、その話が起きている場や状況の可能性を広げると思うんですよね。

――それにもし上がってくる途中に気づいたら「自分が落とされるんじゃないか」と思いひやっとしてしまいそうです(笑)。

まさに予感というか。その、「何かをなぜか分かって、受け取ってしまう」ことに関心があるんだと思います。 次に出されるカードがわかったり。演劇的でもあるし、精神分析的でもある。そのような意味でいうと、ひとりでやるレクチャーは批評文を書くことに近い自由度があるのかもしれません。


沈黙の話芸の可能性

――前編で千鳥の大悟が「(演技が)できない人」を演じるのが上手いというお話がありましたが、話芸の中で誰が、誰に向かって語りかけているのか、そしてそれはどのように読み取れるのかというところでは、発話者のパーソナリティの問題も絡んでくるると思います。大岩さんにとって言語と、それを発話する主体の関係はどのようなものなのでしょうか?

それはとても興味深いテーマだと思います。改めて考えてみると、人がふだん話すときって、そこまで主語、述語を順番通りにしゃべるわけではなくて、初めに言いたいことを言ってしまう。それを書き起こして校正して、こういうインタビューの文章になるわけだし(笑)。いわゆるプレゼンでもそうですが、伝えたいことを先に言いたいのが人間。そう考えると、言語と身体は深く結びついている。言いたいこと、ってまとまった文ではなくて、うずうずとした欲望から出てくる。そこにはしゃべる順番や、言い淀み、言い落としなど様々な要素があります。お笑いなんかでも演者から次の言葉が出ないときは、笑い待ちなのかセリフを忘れてしまったのか分からないような微妙な空気感が生まれて、その意味で「しゃべる人」が浮き彫りになるスリルがあります。

言葉の身体性というと粗っぽいですが、小説ではそうしたものを取り込もうと実験が繰り返されてきました。自然の極致としての心からの語りをテクネー(技術知)として突き詰めていった結果、たとえば20世紀には「意識の流れ(*1)」という様式が錬成される。もちろんそのような技法の水準での実践は、まだまだ過渡期にあると自分は思っています。最近の日本の小説にも、たとえばあえて視点の整合性を逸脱する文体や、状況が上演されているかのような演出が模索されているように感じます。

*1……米国の心理学者のウィリアム・ジェイムズが1890年代に用いた心理学の概念で、人間の意識を動的な観念の連なりととらえること。ジェイムス・ジョイスなどの作家によって、この考え方は小説の技法としても転用された。

前編で話した映画の話にも関係しますが、クリストファー・ノーランの『TENET テネット』(2020 / *2)ではないけれども、最近の物語は自然に受け取るものではなくて、そもそも描かれかたが「おかしい」ことで、解かれるかもしれない、謎めいた複雑さをつくる。リアル脱出ゲームや、アニメ作品の考察に人々が夢中になることとも、どこかで通底していると思います。描写、記述という表面に、いくらでも照合可能な複雑さがつぎこまれて、人を刺激しつづけるというか。

*2……時間移動が可能になった未来の敵と戦うSF作品。映画の中で時間軸が正常に進むシーンは赤、逆行して進むシーンは青など、さまざまな伏線が散りばめられている。公開当初さまざまな考察がSNS上に溢れた

――大岩さんはそのような考察を鑑賞者から引き出す作品を制作されているように思います。

そもそもインスタレーションの制作は、イメージ・雰囲気もつくるけれど、いろいろな「呪文の分布」を調整するというほうが僕はしっくり来ます。なかには、100人のうち1人2人にだけ利くものもある。

大岩さん、砂山太一さんのインスタレーション作品『悪寒|Chill』(2011)の様子。ANBのサイトから展覧会3Dアーカイブを鑑賞することも可能。撮影 / 三野新

――なるほど。ANB Tokyoで開催されたグループ展「Encounters in Parallel」では砂山太一さんとコラボレーションした作品を発表されましたが、実はインスタレーションには触れても良いものも含まれているなど、たしかに観客が気づきづらい設定がありましたよね。

その時展示した『悪寒|Chill』(2021)というインスタレーションでは、部屋にキャスター付きの立体を設置しました。実はこれ、動いても配線に干渉しないように作ったので鑑賞者のかたが動かしても問題はありませんでした。設営準備の段階で、キュレーターから、この装置に触れてもいい旨の案内を出すのかと確認もあったのですが、結局掲示しませんでした。それは『パルプ・フィクション』を「気になったら巻き戻しながら観てくださいね」と言ってしまうようなもので(笑)。ほっとかれることによって、お客さんは「動かしていいのかな?」とか「動きそうだけど触れないでおこうかな」とか考えて、結果まで想定する。それだけでもう呪文が利いていますよ。僕はそういうふうに様々な「可能性」を用意したい。

『悪寒|Chill』に置いてある白い什器は動かしてもOKだった。撮影 / 三野新

――「話芸」というテーマにからめて今のお話をもう少しうかがいたいのですが、話芸はコミュニケーションを前提としたものだと思います。でも『悪寒|Chill』のように明示されてないと、観客はそれに気づかない場合もある。大岩さんのなかではそのように気づかない、伝わらない場合も話芸だと言えるのでしょうか?

最近のテレビもそうですが、上岡龍太郎(*3)みたいな客をすかす芸は見なくなりました。でもそういうふうに「わからないだろうな」と思いながらする芸は好きです。桂枝雀(*4)は黙っているだけで爆笑をとれるような芸人になりたいとかつて言っていたそうです。それはすごく複雑で、「黙ります」と言ってからその芸をやったらだめなんです。

ジャルジャルのYouTubeで「○○な奴」ってタイトルを付けて動画をアップしているように、わかりやすいフリはもちろん「ウケる」。でもそれが一見ないようなケースを考える。ゆっくり登場して、平然と黙ったままでいれば、観客は訝しみ、不安になって、でも1分くらい観ているうちにニヤニヤしだして、いずれそれが伝播して、会場は爆笑しだすかもしれない。そうなったらもう、壇上で何か動き出すのは至難の業。でもうまく動いたらもっと面白い。明確なフリオチの延長線上には、こういうもっと微妙で複雑な事態も考えられるし、たとえば演劇にはこの複雑な主体性のノウハウが蓄積しているはずです。そうした可能性を、インスタレーションはじめ展示芸術が観客のあいだにもつ関係と比べてみたい。

*3……関西を中心に1960年代から活躍した漫才師・テレビ司会者。晩年は東京にも進出。その流暢な話術で一時代を築いた。

*4……二代目桂枝雀。落語家。まくしたてるような口調で人気を博し「上方落語の爆笑王」と称された。1999年に自殺を図り、そのまま意識不明となり死去。

――フリオチをしっかり作り込んで笑いとして回収しなきゃいけない時代になってる一方で、ノーランのように時間をかけて考察する必要があるコンテンツに人々が熱中するのは相反する現象のようにも思います。

あくまで直感ですが、効率という意味での「パフォーマンスの良さ」が通底しているのではないでしょうか。『TENET テネット』にしても、「間」がないけれど、可逆圧縮的で、着実に照合・解凍できる。きちんと収めるための節約・構成がある。「間」をここまで詰められるのは冒頭に話した「パズル映画」の帰結のように思えますが、いっぽう僕の作るようなインスタレーションは一時停止も巻き戻しもないし、怪談のようなライブの話芸に似たところがあると思います。

いつのころからかCMスキップの機能がついたビデオレコーダーが登場しました。ただ番組という映像ジャンルは、そこで観る人を待たせるような構成をセオリーにもつと思います。クイズ番組とか、あからさまに。時間を引き伸ばして商材にする「一旦CMです」のエコノミーは、TVerはじめ動画・漫画サイトにもあって、これについてはイデオロギー的な批判はあるし、注視すべき。でもそれとは別に、演出はしばしば待ち時間を前提に作られていて、それを見るためには、CMは飛ばせないし再生速度も変えない。

――待っている時間をどうコントロールするかが話芸にとって重要であり、大岩さんの作品は、そんな話芸的な語りによって膨らまされたものであるということがよく分かりました。私たちは先ごろ情報が公開された大岩さんの次の展示をまさしく「待っている」わけですが、最後にその展示について教えてください。
 
十和田市現代美術館で7月1日〜9月4日の会期で個展をやります。タイトルは「渦中のP」で、英語表記は「P in case」です。これには意味があるんですが、わかりますか?

――アナグラムとかになってるんですか?

あ、カンペにあるかのようなフリですね(笑)。そうです。会場が十和田市現代美術館の「space」という名前の場所なんですが、それを入れ換えてるんです。「case」からあぶれた「P」に複数の意味を見出して、たとえば「paranoia(パラノイア)」と「patrol(パトロール)」の「P」。過剰な、パラノイアック(偏執狂的)な謎解きが、パラノイアの人は陰謀論のような話を生み出したりする。それはなぜそうなるかというと、気になっている情報についてずっと自前のパトロールをするからではないでしょうか。その意味では批評にもこういうパラノイア性はついて回り、ともあれこの2つの「P」が終わらないループを形作る。だからお客さんにも、この「P」を探してもらえればと思います。

――「待たせることは一番の勝負」と先ほどおっしゃられましたが、とても興味を引く予告、もとい「話芸」を聴いた心地です。本日はどうもありがとうございました。

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大岩雄典 個展「渦中のP」

十和田市現代美術館では、2022年7月より、アーティスト 目[mé]が一軒の空き家をホワイトキューブへと改装した作品『space』を美術館のサテライト会場とし、若手アーティストの作品を紹介します。初回となる2022年7月1日(金)− 9月4日(日)は、主にインスタレーション・アートを制作する大岩雄典の個展を開催します。
大岩さんは美術館での初の作品発表となる本展のために、展示会場であり、目[mé]の作品でもある『space』と、その周辺の十和田市街の空間が持つ性質を注意深く観察し、これまでの作家の関心であった、ドラマ(劇)、鑑賞者の行為や動線、展覧会の制度との、一種の「地口」を見出します。言葉遊びのような空間の操作は、展示会場であるspaceから十和田市街へ重ねて投影され、観客のパラノイア的な想像を掻き立てるでしょう。

会期:2022年7月1日(金)〜9月4日(日)
会場:space(十和田市現代美術館サテライト会場)

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ARTIST

大岩雄典

美術家

埼玉県出身。「空間」というものを、単なる形態を越えて、ゲーム的可能性、他人との親近感、時間との共働、契約や欲望の関係、言葉の効力、歴史・フィクションといった、存在しうる多様な相の織り合わせととらえ、インスタレーション・アート(空間芸術)の形式を再解釈する。わたしたちが他者や物質と、ときに観客や作者と、いかに「居合わせ(contemporary)」なくてよいのかを主題に、たとえば近年は感染症拡大下で変容した空間のありかたに注目して、執筆を含むいろいろな制作をおこなう。 近作に、カードゲーム・インスタレーション《刑吏たち伴奏たち》(2022)、作家やギャラリー同士の経済関係をジュースに変換した《margin reception》(2021)、ノイズに苛まれる話芸としての「漫才」に着目した《バカンス》(2020)など。euskeoiwa.com

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