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INTERVIEW

2023.08.25

「日常のなかの“問い”が余白を生むのかもしれない」 / 哲学研究者・永井玲衣とアーティスト・工藤春香の対話

Text / Daisuke Watanuki
Photo / Shingo KANAGAWA
Edit / Eisuke Onda

慌ただしい生活の中で、仕事から離れて、心のなかに......。
最近、いろいろな場面で「余白」を持つことの重要性が語られています。

特集「『余白』から見えるもの」のメッセージの中でも“「余白」を取り入れた先に、自分や世界にとっての自然なあり方が見つかるかもしれません。”と書いてあります。

ですが、なぜいま、私たちは「余白」を求めているのでしょうか。

今回は、哲学研究者の永井玲衣さんと、アーティストの工藤春香さんの対話からその答えを導き出そうと思います。

個人の話から社会の話まで。生活の中でのふとしたことから、アートの体験や哲学まで。さまざまな話に広げながら「『余白』から見えるもの」とはなにか考えてみました。

余白を考える人

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哲学研究者
永井玲衣
海の中に潜るように一つのテーマについて深く考える「哲学対話」を、学校・企業・寺社・美術館・自治体など様々な場所で行う哲学研究者。生活のなかの身近なことから生まれる「問い」を発端に哲学することの大切さを説く。

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アーティスト
工藤春香
国の制度や法律などが現在に生きている人々の価値観にどのように影響を与え内面化されているかをテーマに絵画とインスタレーションの手法で制作。旧優生保護法や実際にあった事件を元に障がいと社会構造をリサーチした作品などを手掛ける。

哲学対話とアートの共通点って?

ーーまずはお互いの印象から伺います。

永井:工藤さんが参加されていた東京都現代美術館のグループ展「MOTアニュアル2022 私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」(*1)ではじめてお会いしました。作品からたくさんのものを受け取ったことを覚えています。

工藤:私は普段から言語化が苦手なのですが、そのときに永井さんから次々に作品に対して言葉をいただきました。私にとってはとても新鮮な体験でしたね。

*1……2022年7月16日(土)- 10月16日(日)で開催。“言葉や物語を起点に、時代や社会から忘れられた存在にどのように輪郭を与えることができるのか”をテーマに作品を展示した。工藤さんは《あなたの見ている風景を私は見ることはできない。 私の見ている風景をあなたは見ることはできない。》を発表。

ーー今回の特集「『余白』から見えるもの」は、工藤さんの作品にも接続しがいがあるテーマだと思っています。最近は社会性を帯びた作品を多く発表されていますが、きっかけはなんだったのでしょうか。

工藤:私はよくポリティカルアーティストと呼ばれることがあるのですが、私自身は社会というより私自身のことを扱っているつもりなんですね。自分も社会の中の一部なので、自分を見つめるとどうしても社会につながってしまうのかもしれません。もちろん高校生のときから炊き出しの支援に参加したりと、それなりに関心を持って社会参加はしているのですが。

永井:私が今回工藤さんと話したいと思ったのは、「余白」は極めてポリティカルなことにつながるものであると思っているからです。「余白」が大事だと無邪気に言い続けることはできるけれど、同時に私たちは、何が「余白」を無くさせるのかを考え、その「余白」を得られない人たちがいることも知らなくてはいけません。

ーーまさに「Your Personal is Political(個人的なことは政治的なこと)」ですね。個人に起きた出来事も社会構造によってあてがわれた政治的なことであると。

永井:私はさまざまなところで哲学対話の場を開いているのですが、その時に私たちをつなげているものが「問い」なんです。あるとき、参加された高齢の女性が「雑草が生えてくるのよ」という話をしてくれました。おかげで「雑草はなぜ生えてきて、なぜそれを抜いてしまうのか」という問いが立ち上がった。つまりそれって「私たちはなんで異物を排除したいと思うのか」という問いなんです。そのような「手のひらサイズの哲学」のいいところは、そこに「余白」が生まれることだと思います。いきなり共生社会、多様性、SDGsについて考えますと言っても、うまく話せませんよね。日常に根ざした問いが「余白」を生むことで、人は社会のことを話せるようになる。私の場合は「問い」ですけど、アーティストの場合はそれが「作品」なんだろうなと思います。

 

作品を作る時は、深い水中に潜っている

インスタレーション作品〈あなたの見ている風景を私は見ることはできない、私の見ている風景をあなたは見ることはできない〉(2022)/表の年表は主に旧優生保護法を中心とした障害に関する政策・制度・法律等をまとめた現在から約100年について。中の年表は障害当事者運動に関してまとめた現在から約100年について。撮影:森田兼次

ーー作品が「余白」を生むという話もありましたが、工藤さんの新作インスタレーション《あなたの見ている風景を私は見ることができない。私の見ている風景をあなたは見ることができない。》は、19人が刺殺された2016年7月の相模原障害者施設殺傷事件をモチーフとしていましたね。

永井:障がい者差別について、優生思想について話しましょうと言われても、人は受け止めきれないし語る言葉を持たない。そこに工藤さんが作品で「余白」をつくることによって、観客がやっとそのテーマに触れられるということはあるんだろうなと思いました。

工藤:雑草の話で思い出したんですけど、家の近くの空き地で雑草が成長しすぎて森のようになっているんです。たぶんそれは見る人によっては無秩序で見苦しいもののはず。でもこれを植物学者が見たら、きっと情報の宝庫なんですよね。あることに詳しくなると、 全然見えてくる風景が変わってくる。雑草一つひとつにある名前を知ったら、別に抜かなくてもいいと思えるかもしれません。

そして障がい者のことや優生思想についてですが、私は20代のときに「青い芝の会」(*2)や障がい者運動のことについてたくさん本を読んでいました。私も健常者という立場で誰かを差別する側にいたということに衝撃を受けたのを覚えています。でも、自分が高齢出産を控えた際に「障がいのある子が生まれたらどうしよう」と不安になってしまったんです。以前から障がい当事者の取り組みについては知っていたはずなのに、無意識な差別意識は私に染み付いていたんです。そこで改めて、優生保護法の歴史を調べ始めました。想像することが大事だとよく言われるけれど、やはり知識がないと始まらないんですよね。自分の内側からの想像なんて、本当に偏見ばかりなので。それを作品化することで自分がどのような社会にいるのかを知り、多くの人に見えるよう可視化したかったのです。だから結局、社会のためというより自分のためなんです。結果的にいろんな人が知り、考え、想像するきっかけになればいいなと思うんですけど、まずは自分が知るためでした。

*2……脳性麻痺者の当事者による障害者差別解消・障害者解放闘争を目指す日本の障がい者団体。1972年にはドキュメンタリー作家の原一男が彼らの闘争の様子を追った映画『さようならCP』が公開された。

永井:私は哲学対話の際に「自分の言葉で話す」という約束事を入れています。手のひらサイズの哲学を行うには、自分の言葉で確かめていくことが重要なので。しかしそれは「知識なんていらない」というところに滑り落ちてしまうので注意が必要だなと思っています。例えば差別のことについては知らずに好き勝手話せてしまうことだってあり得る。それはとても危険なことだと思います。私たちが自由に考えるだけではすまない領域だってたくさんあります。工藤さんのおっしゃる通り、差別に対して良心で乗り越えるのではなく、ちゃんと知識で立ち向かうことは大事だと思います。作品の鑑賞者からすると知識は自分の想像の範囲を狭めるのではないかと思う人もいるかもしれませんが、真逆ですよね。むしろ、見えるものが増えることが知識の素晴らしいところ。私もそれは信頼してますし、知識の手綱を離さない工藤さんの作品がすごく好きです。

工藤:美術鑑賞で言われる「自由に鑑賞を」って実はそんなに自由な状態ではないですよね。私は結構訓練を信用しています。水泳もそうですが、美術教育も確実に訓練なんですよ。画家は基本的に見る訓練をされてる人で、見る訓練を積むとなんでも描けるようになります。私もその訓練を受けてきたのに、それでもやっぱりまだ実は「何も見ていなかった」と一連の経験で気付かされました。今はもっと世界をちゃんと見たい。だから作品をつくることが手段となり、目的は見ることに変わったように思います。

工藤さんのスケッチ

最近だと朝早く起きて近所の緑地に行き、 そこでいい感じの葉っぱを見つけてはスケッチしています。そうするとすごく濃厚に世界と交わったという満足感があって、1日を安心して過ごせるんです。世界とイチャイチャしたような気持ちを持っていると、忙しくて自分の時間がないような暮らしをしていてもなんとかやっていける。永井さんの『水中の哲学者たち』(*3)を読んで思ったのですが、美術ってほぼ哲学と同じなんですよね。作品をつくっているとき、私もずっと深い水中まで潜っているので、私もずっと1人で対話をしているんだなと気づきました。

*3……2021年に出版された哲学エッセイ『水中の哲学者たち』。世界のなかの素朴な「問い」について、海の中での潜水のごとく皆が深く考える哲学対話について語られている。

永井:すごく嬉しいです。私も哲学を通して世界をよく見たいと思っているんです。哲学対話をするとき、私は世界と出会い直してるし、関係し直している感覚があります。だから、その対話の場は終わったとしても、世界の1つの側面と1回イチャイチャしてるから、その後の日常でもなんかちょっと大丈夫だと思える。その感覚はとてもわかります。

 

「余白」は逃げ場であり、逃げ場ではない

ーーお二人はどういうことに「余白」を感じますか?

工藤:仕事でも子育てでも、生きていると常に「判断」しないといけないんですよね。それって案外私にとってはストレスで、「余白」というものを考えたときに、その判断を保留できることなのかなと思いました。保留の間は目の前の問題から一旦逃げられて、遠くのことを自由に考えられるんです。だから判断しないでいられる移動中に「余白」を感じることが多いですね。あとは、作品を見つめるときも同じ気がします。初めてマティスの《生きる喜び》を観たときに、本当に生きる喜びを感じて。すごく気が合うなと思ったんですよね。

永井:私は寺山修司が好きで、彼の作品から同様のことを感じたことがあります。「血は立ったまま眠っている」という言葉に出会ったとき、殴られたような衝撃を受けました。それは哲学対話中でも起こります。よくわからないけど、光る言葉がぼんと出てくる瞬間があるんです。その瞬間、違う世界に連れて行かれたような気持ちになります。

ーー圧倒的な「何か」に出会った瞬間に、自分の中に別の空間(余白)が生まれることがあると。

永井:「余白」という言葉は、のんびりお茶をするようなゆったりした休息のイメージで語られることもありますが、私にはそんなイメージはないんですよね。どちらかというと、動き回っている。行き止まりだと思ってた自分のいる世界に、まだ奥行きがあったんだと思えることなんです。哲学だってそうですよね。「これはコップだけど、これは本当にコップか?」と言い始めるのが哲学なので。それをすると常識だと思っていた世界が一気に広がるんですよね。その世界の広がりを知ったおかげで生きられるという経験をした人は案外多いと思います。そのときの私はリラックスというよりも、みなぎっている。

工藤:わかります。私も世界とのイチャイチャタイムのときはみなぎっています! アート鑑賞時も、身体としてはゆっくり巡りながら観ているけど、 体の中ではものすごいいろんなことが起きていて頭の中はフル回転していますよね。哲学対話でも、話はゆっくり進むけど頭はぐっと水中に潜っていて忙しい状態ですよね。

永井:これまでの世界とは違う、明らかに異なる場所がぽんと現れたものが「余白」だと思うんですよね。しかし、 今「余白」の話をするときに気になるのは、それがある種の逃げ場のように語られること。私たちは疲れていて、あきらかに「余白」を求めている。でも、「余白」を感じてゆっくりできたらまたすぐに資本主義世界に戻りましょうでいいのかというと、そうではないですよね。根本の問題にも目を向けるべきではないでしょうか。

アートや哲学対話は「余白」をつくりだしてくれます。最初はアジール(*4)として触れてみるのもいいのかもしれません。でも、私はそこで見つけた「余白」が日常にあふれ出して、いつか大変な日常自体が変わっていけますように、と願いながら哲学対話をしています。例えば日常のつらい労働の中で、ふと現在の環境に疑問を抱き、今まで気づかなかった問いが生まれることだってあるかもしれないですから。

*4……「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」という意味。反対の言葉でアサイラムがある。

工藤:私もそうです。私の作品はわざと時間がかかる見方しかできない仕掛けになっています。いろいろ観て発見したものを日常に持ち帰ってもらいたい。その気付きが5年後でも10年後でもいいから、その人の生活や行動に変化が起こるといいなと思っています。だから永井さんにとっての哲学対話と同じで、私にとってもアートは全然逃げ場ではないんですよね。だけど、逃げ場でもある。

永井:そうそう。人が考えた純度の高いものには、なかなか日常では出会えないじゃないですか。だから出会えるとすごく嬉しい気持ちになるんです。それは苦しい日常の助けにもなるものなんですよね。それがあるから生きていける。「余白」によって自分の世界をどんどん拡張させながら、この現実社会にちゃんと抗っていきたいですね。

Information

「ドローイングの会 絵を描く人がいる場所」

工藤春香さん主催のワークショップ。絵を描く経験の無い人でも材料は揃っているので描くことができます。
詳細はこちら

日時: 2023年9月4日(月)15:00〜17:00
会場:会場 PARA神保町2F(東京都千代田区神田神保町2-20-12 第二冨士ビル 2階)
参加費 :2,000円
申し込み方法 :メールにて受付

お名前を明記の上、件名を「ドローイングの会」として【co.playsandworks@gmail.com】までお送りください。
※先着順15名

DOORS

永井玲衣

哲学研究者

哲学研究と並行して、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を幅広く行っている。哲学エッセイの連載なども手がける。独立メディア「Choose Life Project」や、坂本龍一・Gotch主催のムーブメント「D2021」などでも活動。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。詩と植物園と念入りな散歩が好き。

ARTIST

工藤春香

アーティスト

東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。絵画の制作から始まり、2010年代後半から、社会的な課題へのリサーチを基に、語る言葉を持たない人々への想像から、テキストやオブジェ、映像を組み合わせたインスタレーションを制作している。制度や法が人々の価値観にどのように影響を与え、内面化されているかを問う。主な展示に国による障害者政策と当事者運動の100年の歴史を取り扱った「MOTアニュアル2022私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」出品などがある。

volume 06

「余白」から見えるもの

どこか遠くに行きたくなったり、
いつもと違うことがしてみたくなったり。
自然がいきいきと輝き、長い休みがとりやすい夏は
そんな季節かもしれません。
飛び交う情報の慌ただしさに慣れ、
ものごとの効率の良さを求められるようになって久しい日常ですが、
視点を少しだけずらせば、別の時間軸や空間の広さが存在しています。
いつもより少しだけ速度を落として、
自分の心やからだの声に耳を澄ませるアートに触れる 。
喧騒から離れて、自然のなかに身を置く。
リトリートを体験してみる。
自然がもつリズムに心やからだを委ねてみる……。
「余白」を取り入れた先に、自分や世界にとっての
自然なあり方が見つかるかもしれません。

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